日の国や月の下

重呪闡明

月に枝豆、危機に猫。(二匹目)

「〈存在〉とは剽窃であり、〈意識〉とは抵抗である。わかるか? ちさと」
 うっすらと青みがかった海流[カイル]の大きな瞳に見据えられると、わたしはその美しさに思わず見入ってしまい、会話の途中で言葉に詰まることもしばしばだった。くっきり二重瞼[フタエマブタ]に、どことなく猫目な彼。そう、キャッツアイ。わたしの乙女心はもはや、彼[カ]の猫目野郎の手によって物の見事に盗まれてしまっていたのであります。にゃん。
「あ、お前、またオレに見惚[ミト]れてたろ? お前って、ほんっとオレの顔好きなのな。そんなしょっちゅう見つめられたら、わかっちゃいてもさすがに照れるぜ。ポッ。なんつって」
そんな時、海流はいつもふざけてみせて、その細く白長い腕を伸ばして、わたしの肩の辺りを手の平でぺしぺしと叩きながら笑ったりしてた。(ああもう、ドキドキする……。)なんて内心は気が気じゃなくても、今よりもっと幼気[イタイケ]だった当時のわたしは、何故だか彼の前では平静を装ってやろうと必死になっていたのでありました。素直じゃないね。今思えば、ちょっと笑える。きゃ、恥ずかし。もちろん当時のわたしにはそんな余裕なんて無かったわけだけど。ふふ。
「べ、別にあんたの顔に見惚れてたわけじゃないわよ。で、でもやっぱり……め、眼の色はちょっと、き、綺麗だなって……」
「はは、同じことじゃねえか」って海流は笑いながら、
「ああ、これねぇ、祖母ちゃんがちょっと北欧系の血が入ってた人で、あと祖父ちゃんが根っからの東北人なんだけど、そっちもちょっと眼の色が薄くてさ、知ってた? 日本の人でも元から青とか緑の眼してる人もいるんだぜ、特に東北の方、そんで両親は二人とも普通に黒目だったんだけど、隔世遺伝ってやつなのかな? オレがこうなったのは。たぶん。別に確かめたことはないんだけどさ」
って、そう言った後、海流は何を思ったのか、目だけをキョロキョロと動かして上の方を見るような動作をしだして、わたしはその様子が白目を剥いてるみたいでおかしかったから思わず吹き出して、
「ちょ、あんた、何やってるの? そんなことしたって自分の眼は見れないんだからね」
なんて、そんなツッコミを入れたんだっけ。海流は、
「あ、そっか。そうだよな。へへっ」
って、確かそんな風に笑ってた。そう、笑ってたんだよね、海流。あなたわたしの言葉に応えて、それでまた言葉を交わして、笑い合って……。それが楽しかった。それだけで、本当に、楽しかった。楽しかったよね、わたしたち。
「お前さぁ、オレに見惚れるのはしょうがないとして、話の方もちゃんと聞けよな。でないとオレっちつまんなくなっちまうからさぁ」
 海流はそう言ってとりあえずは不満げな表情[カオ]をしてみせてはいたけど、本当はそんなこと、気にもかけていなかったんだと思う。だってあいつ、一旦難しい話をしだすと、たとえわたしが付いて行けなくなって遠い目をしながら完全に聞き流していても、全くお構い無しに話し続けていたから。でも、あれはそう、まるで、歌っているようだった。わたしは海流の甘く耳を掠[カス]めていくような声が好きだったから、彼の言葉の意味を理解するのは諦めても、その声の方だけは拾い続けていた。わたしたちはお定まりの防波堤の上に、野良猫が戯れ合うみたいにして腰掛けていて、わたしはひとり歌い続ける海流を後目[シリメ]に、目の前に拡がる海や砂浜、万物に等しく覆い被さるような空、それに打ち寄せては引いていく頻波[シキナミ]の白さや、沖合の海の鱗に日の煌[キラ]めいたりするのをぼんやりと眺めるともなく、絶え間なく鼓膜をくすぐり続ける潮騒[シオサイ]と、わたしの愛する海流の歌声、それら互いに重なりはしても決して融[ト]け合うことのない二つの音色を聞き分ける、その狭間[ハザマ]で、風の運ぶ潮の香りに噎[ム]せながら、陶然と、ひとり物も思わずにいられた……。
「ちさと、〈存在〉ってなぁ〜んだ?」
 海流はよくそうやって年長者が小さい子にクイズを出題するようなノリで、東北の港町の一般的な女子高生が普段は考えたこともなさそうな哲学的な問いの前に、突如わたしを引き出したりしたものだった。なんかそういうのが好きだったみたい。だってそんな時の海流は実に楽しそうで、見るからに生き生きとしていたから……。不意にマジ難題を投げ掛けられ、健気にも考え中だった当時のわたしは、きっと口をへの字に曲げながら(いまで言うアヒル口?笑)、う〜んう〜んと徒[イタヅラ]に呻吟[シンギン]させられているような気がしてしょうがなかったに違いない。そんなのわたしの考えることじゃないって。そんなことないのにね。
「えっ? あ、う〜ん……。あ、『ある』ってことじゃないの?」
「それじゃ『ある』ってどういうこと?」
「ええっ? そりゃ『ある』は『ある』でしょう?」
「……本当に? それでわかる?」
「えっ? そりゃあんた……わかるでしょ? あ、『ある』アル……」
「う〜ん、それはどうかなぁ? それで本当にわかったって言えるのかなぁ……」
「いや、わかるでしょ……それじゃ、う〜ん……、『ない』じゃない……ってこと?」
「ん? それじゃ『ない』ってどういうこと?」
「ええ? まだ聞くの? う〜ん……『ない』は……『ある』じゃない……から、う〜ん……ん? そしたら『ある』は〔『ない』じゃない〕、『ない』は〔『ある』じゃない〕でしょ、ということは、こいつを代入すると……『ある』は【〔『ある』じゃない〕じゃない】、『ない』は【〔『ない』じゃない〕じゃない】になるから、つまり……『ある』は『ある』、『ない』は『ない』……ってこと? え? ん?」
「はは、本当に? そうなの?」
「う、う〜ん……」
「ほら、ちさと! 諦めるな! 諦めたらそこで試合終了だぞ(笑)」
「ああもう、う〜ん……わかんない! もうやだ! やめた! なんか腹立つし」
「ははは、ごめんごめん。うんうん唸[ウナ]ってる時のちさとの顔が面白くてさ」
(カチンッ!!)
「んだと、コラ!(怒)」
「いや、ほら、あのその……」
 わたしに胸ぐらを掴まれながら目を逸[ソ]らす海流。ふふ。ホントとぼけた奴だったな。
「えっと、あの、とりあえず放してもらってもいいですか」
「ったく、お前ナメてんじゃねえぞ」
「…………」
(両者しばし沈黙。潮騒に風の音。海猫が鳴いている……)
「でね、『ある』って言ってもいろいろあってね。まず〈存在〉っていう言葉から考えると、〈存在〉の『存』っていうのは『時間的』にあるっていうことで、『在』の方は『空間的』にあるっていうことなんだよ。わかる?」
「……わかんない」
 からかわれてすっかり気を悪くした当時のわたし(笑)
「そう拗ねるなよ」
 そう言ってわたしの手を取る海流。わたしよりも温かいその手……。
「えっ? ちょ、な、何さ?!」
 思わず頬を赤らめるわたし。(そ、そんな急に……。ド、ドキドキしちゃうじゃない……。)
「な? こういうのが『空間的』にあるっていうこと。あれも、それも、これも」
 そう言いながら海流は浜辺に打ち上げられたゴミや傍らに置いてあったわたしの鞄などを指差し、それからわたしたちが腰掛けている石造りの堤防をぺしぺしと叩いてみせた。
「な? わかるっしょ?」
「う、うん……。なんとなく」
「そいじゃあさ、『ある』ってそれだけかな? オレらが『ある』って言ってるのはそういうことだけ? 他にもない?」
「う〜ん……」
「ほら、明日があるさ、とか、思い出話とかして、そんな時もあったよね、とか、あの頃のわたしは、とか、あと今日は予定があるから、とか、ね、これが『時間的』にあるっていうこと。もちろんそれだけじゃないし、オレすげえ大ざっぱに言ってるからさ、語弊があるかもしんないんだけど、ほら、どうせオレあんま頭良くないから(笑) それに細かいこと言い出すとキリないし、楽しくなくなっちゃうからさ」
「わたしはすでに楽しくない……」
 むくれてる当時のわたし。そんなわたしを面白がって笑う海流。
「まあ、そう言うなよ。愛してるぜ、ちさと」
そう言いながらわたしの肩にポンッと手を置く海流。笑顔。そういうさりげないスキンシップって結構大切な気がする今日この頃。思い出すだけで胸がほっこりするの、その瞬間だけを綺麗に引き出せた時は、だけど。それがなかなか難しい……。はぁ……。
「ごまかすなよ(実はちょっと嬉しい)」
「ん? 本当だぜ? でさ……」
 その時点で胸がキュンキュンしちゃって、その後の話が全く耳に入って来ない当時のわたし。恋に恋しちゃってましたよね、完全に。まさにうら若き乙女な当時のわたし。そしてだんだんノッてきて、そんなわたしのことなんかはそっちのけで、自身の語りに没入していく海流。おいこら。
「『存在すること、それは剽窃である』──シオラン賢人の言葉なんだけどね。『剽窃』ってわかる?」
「小説?(てか、シオランケンジンって誰だよ……)」
「ひょ、剽窃。要するに『パクリ』ってことなんだけどね、ただここで言う『剽窃』ってのは必ずしも『劣化コピー』であるとは限らない、とオレは思うんだけど……まあ、とりあえずそれはいいや、でね……」
 こうなってくるともう当時のわたしの手には負えなかったので、わたしはひとり海や風の音も聞いたり、潮の香りに噎せたり、自分の口唇[クチビル]を舐[ナ]めたりしながら、それでも夢中になって語る海流の歌声に耳を傾けることにより、他でもない「わたし」と言う我と我が身の存在に、ぼんやりと感じ入っていたのでありました。
「これは即ち〈存在〉というわれわれにとって根本的な事象を自ら定義せんとするものであり、それはつまり〈われ〉そして〈われわれ〉としての『はじまり』を自ら設定しようという、一つの試みでもあるんだよ、少なくともオレにとっては、ね。わかる?」
「は、はあ……」
 もはや付いて行く気などさらさらない当時のわたし。そしてその語りの奔流、汝自身の思考の渦中に身を委ね、次第に自分が自分であることも忘れていくような海流……。
「わたしは言う、存在とは剽窃であると。何故なら、わたしやあなたやわれわれが、他でもなくその存在について思いを巡らすとき、既にそれはあるから、そこにはもう、如何ともしがたく、われ、そしてわれわれとしてのこの時空において、それはもはや、われわれにとっては動かしがたい、現前たる事実として、存在しているから。わたしやあなたやわれわれが、いままさに、ここにこうしてあるように。わたしは言う、われわれは既にあるものをあるとし、既にあると言い得る限りのものをあると言う、そしてその起原根本においては、決してわれわれ自身がそうした一切を予[アラカジ]めあらしめたわけではあるまいと。わたしは言う、既にそれはあったのだと。またそうでなくては、既にある存在がわれわれの現前にこのように、存在として存在するのでなければ、そう、それが既にこのように、あるもの存在するものとしてわれわれの前に存在したのでなければ、一体われわれは如何様にして、その存在の存在たるをこのように自ら知るにまで至ったというのであろうか。わたしは言う、われわれはわれわれと外[ホカ]にあったそれを見聞き触れ嗅ぎ味わうことよってその存在するを知り、またそうした諸々の存在に倣うことによってはじめて、われわれもまたそのようにしてあるのだ、われわれはまたそのようにしても有り得るのだ、と自らをもそう言い得るようなわれわれにまでなったのではなかろうかと。しかしわれわれは言う、そうではない、否[イナ]、と。そう、われわれはまさしく、そう《言う》のだ。人よ、人の子よ知れ、わたしやあなたやわれわれが、いままさにここにこうしてあるように、現にそれが、恰[アタカ]もこのような言の葉としてあるかのようにある限り、またそれが、往古来近[オウコライキン]違[タガ]わぬほどにそう有り得る限り、それは存在しないから非存在であると言い、それは人語に落ちぬから語り得ないと言うも、それらは皆等しく、この否定という機能を有する人の子の言語という舞台装置で以て演出せらる悲喜劇中の決まり文句に過ぎないのだということを。わたしは言う、存在しないもの、語り得ないもの、それらはいままさに、ここにこうして、現にわれわれとともに、この劇中に《ある》のだと。時にわれわれはこうも言う、いいや、全ては虚無である、一切は空[クウ]の空[クウ]である、と。しかしそう言ってみたところで同じことではないか。わたしは言う、われわれがこのように言う限り、またそのようにして言い得る限り、いや、それは全く以てわれわれには言うことができない、とそのようにして言うことすらできないのだ、とそう言い続けている限り、それもまた同じことではないかと。わたしは言う、存在しないもの、語り得ないもの、またそうであるとさえ言うことができないもの、われわれはそうした一切を前にしては、唯一沈黙せざるを得ない、いや、ただ沈黙としてあらねばならないのだと。もっともそのような沈黙においては、未だわたしやあなたやわれわれが、いまここにこうしてあるようにあるなどということは、もはやないのであろうが。わたしは言う、このような言の葉によっては語り得ない、またそのようにして言い顕すことさえ敵わぬその沈黙、しかしわれわれはそれをこのようにして、言外においてではあるが、それとなくなら、《示す》ことはできるのではないかと。無論それは確かめようもないことではあるが。と言うのも、どうしてわれわれにそのような沈黙を共通のものとして相有することができようか、せいぜい百年の孤独を抱えたわれわれの、この独り身における体験や理解を、他でもなく橋渡し互いのものとせんがためにある、人の子の息吹[イキ]と振れ舞ふ言の葉が、もはや全く以て用を成さぬが故にこそ、沈黙であると言うのに。しかしわれわれは知っている、かつてはそのような沈黙に堪[タ]え得る人の子が、唯我独尊としてあったのだということを。しかしそれはわれわれには確かめようもないことなのだ。それならばわれわれは、それを一体どのようにして扱ったのか? 彼の彼は、人の子を前にして説き行い、身を以て示したのだという。われわれはそれを受け、彼[カ]の沈黙へと通ずる教えと称して《真似た》のだ。それを次第に自分のものとするように、やがてはそれを自身のものでもあるかのように、そしていつしか我と我身[ワガミ]もそのような存在としてあるかのように振る舞って……そう、故に存在とは剽窃である。しかしわたしは言う、何度でも言う、われわれには彼の沈黙など確かめようもないことなのだ、未だそれを証し立てる術[スベ]を、何一つとして持たなかった、かつてのわれわれには……そう、われわれにはそれを想像し得るのみで……そう《信じる》ことで……その想像を……、またそうである限り、それは……幻想であり、そう、幻想であり……」
 いつしか防波堤の上に独り立って、身を振り手を振り、空や海に……いえ、そこにはいなかったはずの誰かに向かって何事かを熱心に訴えかけていた海流は、そこまで言ってしまうと黙り込んで、見るからに緩んだそれまでの心身の緊張に等しく、その表情もまた気が抜けたようになっていて、そのまま腰を落としはしたんだけど、今度は座らずにしゃがみ込んで、俗に言う「うんこ座り」の姿勢になって、自分の肘と膝をつき合わせながら、目の前にかざした掌[テノヒラ]をしげしげと眺めては、物も思えずにいるようだった……。
「もういいの? 気ぃ済んだ?」
「ああ……、オレ……またちょっと熱くなってた?」
 海流は惚[ホウ]けたような顔をしたままそう言って、それでも目の前の掌からは視線を外さずにいた。
「うん、かなりね……。今までで一番かな」
「ああ、そう……、だよね……」
 と海流はさも興味が無さそうに言った。本当に、あんなに長くて「コワい」のは初めてだった。それまではせいぜい、長くても一二分ぐらいで、たぶんどの時も、何かをきっかけに、急に人が変わったようになって、宙を、何処[ドコ]でもないような何処かを見ているような眼になって、声も大きくなって、当時のわたしには理解できなかった何言かを、何かに向かって何処かへ謳[ウタ]って……。わたしはそんな時、わたしの知っている「海流」なんて、本当はそんな人格[ヒト]、どこにもいないんじゃないかって、なんとなくそんな気がして、なんか……、すごく、凄く……コワかった。
「……あのさぁ、以前[マエ]から聞こうと思ってたんだけど、いや、以前[マエ]にも聞いたことあるような気もするんだけどさ、それって……一体何なの?」
「ん〜? まあ、オナニィ……みたいなもんかな」
(ああ、言ってた言ってた。以前[マエ]に聞いた時もなんかそんなこと言ってた。すっかり記憶からは消去されてました。)
「はあ……」
「まあ、要するにあれだよ、オレの青春ってこと」
「むむ、せ、性春……(妄想中)」
「ばか、何想像してんだよ、ほんとエロい奴だな。青春だよ、青春、青い春の方」
「わ、わかってるわよ! え、え、エロいって何さ! エ、エロいって言うな!(赤面)」
「何だよ、人がせっかく褒めてやってんのにさ(笑) ほんとかわいい奴だな」
「えっ? あ、ありがと……って、ん?(でもなんだかんだでちょっと嬉しい)」
「はは、でね、オレがそれを自慰[オナニィ]だって言うのは、それが徹頭徹尾、オレが自分で自分を満足させるためだけにそうしてるっていう意味でさ、もちろんそれで本当に満足できるってなもんでもないし、ほら、やっぱ終えた後にはそれなりにそこはかとない虚しさとかも感じちゃうわけで……」
「へぇ〜、そうなの。知らないけど。でも確かになんか虚脱してる感はあるよね」
「おっ、さすが、よく見てるねえ。でね、まあ、そんなもんだってわかった上で繰り返しやって満足った気になってるから、まさしく自己満っていうかさ、そんなことしたって何にもならないってこともよくわかってるから、虚しくもなるのかなって思ったり……、あと単純に肉体的な疲労とかも相俟[アイマ]って……みたいな?」
「ふ〜ん……じゃあ、やらなきゃいいじゃん(ズバッシュ!)」
「お、仰[オッ]しゃる通りでございます。きょ、恐縮です」
海流はそう言いながら急にかしこまって見せて、そのまま前方の渚へ向かって頭を下げることにより、あたかも隣にいるわたしに対して頭を下げてるみたいなフリをしたのだった。恐縮ですって。なんでだろ?
「ま、ま、まあね、ほら、オレもこう見えて実は人知れず悶々としてることも多いっていうかなんていうかさ……」
「何言ってんの、あんたどう見たって根暗[ネクラ]でしょ(ズババッ!) わたしもだけどさ」
「……でね、まあ、そういうもんだってわかってはいるんだけど、なんていうかさ、ほら、外に出すもん出してる分には、それなりに快感も伴ったりしてそういうことも忘れていられるっていうかさ、たまのガス抜きみたいなもんかなぁ、やっぱり」
「ちょ、あんた、だ、出すもんて……(妄想中)」
「そう、内に溜まってきて、なんかこう……溢れんばかりになったものを、たまにはこう、迸るままに外へ出す、噴出するっていうかさ、そういうこと、かな」
「そ、外に出す……ふ、噴出……(暴走中)」
「(わかっちゃいるけどまだつっこまない)……。ていっ(ペシッ!)」
「んもっ!(軽く横っ面を張られた)」
「おい、しっかりせい! お主[ヌシ]はいま煩悩[ボンノウ]に支配されておったぞ」
「はっ?! ほ、本能……寺?」
「……まあ、間違いではないけど(なんかもう細かいことはどうでもよくなってきた)」
(さざめく波の音が次第に高く聞こえ出す……。やはり海猫が鳴いている……)
「でさ、オレなりにそういうことについて考えたりもするんだけどさ、やっぱそれも考えようによっては、もっとこう……違った見方もできるんじゃないかって。あぁん……と、要するに『物は考えよう』ってこと」
「ふ〜ん……たとえばどんな?」
「ほら、オナニィした後はなんか虚しくなるって、さっき言ったろ?」
「うむ」
「でね、その虚しさの周辺をもう少し掘り下げてみるとだな……」
「ほうほう……」
「要するに、快楽なんて果つれば消える束の間の夢まぼろし幻影に過ぎないのだっていう虚しさと、独りでこんなことしてるオレってどんだけ取るに足らない存在なんだよっていう虚しさがあるわけ、大ざっぱに言うとね、まあ、オレの場合なんだけど」
「ふむふむ……(そうなんだ)」
「つまりそれは己[オノレ]という存在の卑小さ加減をまざまざと思い知らされる体験でもあるわけで、オレみたいにその……なんていうかさ、誇大妄想癖があるっていうか、そういう奴の場合はさ、むしろ定期的にそういうことしておいた方が身のためだっていうか……、なんかこう……調整っていうかさ……」
 わたしはその時、珍しく海流が何かの妨げによって自分の言いたいことを言えないでいるって咄嗟に感じて、どうにかしなきゃって思うと同時に、自分の中で何かのスイッチが入ったみたいな状態になって、わたしの足りない頭がひとりでに、それもわたしの知り得る限りの海流を中心にして、またそれ以外の一切を、ありとあらゆる事物観念をも巻き込みながら、物凄い勢いでフル回転しはじめたのだということを忘れられないでいる。今思えばあれは、我が子の異変にいち早く気がついた母親の、緊急時対応モードのそれに近しい状態であったのではないかしら、などと現在[イマ]のわたしは思ってみたり、なんとなくだけど。言うなれば、これも女の勘ってやつ?(キラリ)
「ふ〜ん……要するにあんたあれだ、もう今のうちから小さくまとまっておこうとしてるんだ。早めにさ。それってなんか……じじ臭っ」
「む……」
 実際海流は学校生活とか進路とかそういう現実的な話になると、ちょっと不自然なくらいに分別臭過ぎるところがあった。海流は病弱だからとか家庭の事情があるから仕方ないとか言って、学校生活においては欠席早退を繰り返すこともしばしばで、修学旅行以外のほとんどの学校行事にも参加しなかった。でも遅刻の回数だけは人並みで、欠席や早退の日数も卒業に差し支[ツカ]えないギリギリの範囲内にはしっかりと収まっていて、それにその辺りについては既に学校側ともちゃんと話がついているようだった。それからそうやって授業に出ていない割には成績も中の下ぐらいをキープしていて、まあ、でもそこは当時のわたしが一生懸命取っていたノートのコピーを海流にも渡していたから、或いはそれが功を奏していたのかもしれないけど……、でもわたしは今も、海流がそれをちゃんと見てくれていて、本当に勉強していたのなら、海流の成績があの程度であったはずはない、と思っている。なんか海流にはそういうところがあった。まるでそういった学校生活の何もかもを――それは普段の授業態度とかクラスメートや担任の先生との間の人間関係とかそういうのも全部含めて、可もなく不可もなくこなして「見せて」いるというような……。わたしはそういう、学校にいる時の海流が正直嫌いだった。なんかそういう時の海流はすごくイヤな奴……というか、気心の知られない冷たい奴に見えたから……。そう、海流は時折そういう学校生活の何気ない日常の風景を、なんかこう……目撃した当時のわたしが思わずぞっとしてコワくなっちゃうぐらいの冷たい目をして……いえ、今になって思えばあれは、そんなこんなにいちいち感情を呼び起こすのはもう煩わしいことでしかないといった海流の、ふとした瞬間に見せる、冷徹な眼差しであったのかもしれない……うん、きっとそうだったんだろう。やっぱあいつじじ臭かったよね、一介の男子高校生(手芸部)の割にはさ。でも当時のわたしにはそんなことは関係無かった。二人でいる時の海流がわたしだけを見てくれていれば、それでいいやって、もうそれだけで十分って、そんなことしか考えていなかった……。現在[イマ]のわたしだったらむしろ、彼のそんなギャップに、彼の美しさを引き立てるその陰影にこそ胸キュンしちゃってるところなんだけどね。むふふ。
「あんたまだ十八でしょ? 今からそんなこと言っててどうすんのさ。そんなんじゃ本当にじじになった頃には、もう小っさ過ぎて誰の目にも入らないような男になってるわよ」
「ん?……小っさかったらむしろ目に入りやすいんじゃね? 逆に(笑)」
「う、い、いまはそんな細かいことはどうでもいいの! そんなの屁理屈よ。わ、わたしが何を言いたいのかぐらいわかるでしょうよ(なんかちょっと悔しい)」
「う〜ん……なんとなく」
 なんかそういう時の海流はすごく子供っぽい感じがした。別に普段が大人っぽいってわけでもなかったんだけどさ。なんとなく小さい子が大人の顔色なんかを窺[ウカガ]ってる時に射す「陰」みたいなものが、そういう時の海流の表情にも認められる気がした。あっ、そうそう、「大人」と言えば、海流曰[イワ]く「『わたしってば大人の階段昇っちゃったかもぉ〜』とか言う時の、その大人という行き着く先や心象風景における階段などといった表象は、いずれも己[オノ]が低き小さきに端を発する幼気な幻想に過ぎないんだよ。本当の大人っていうのはさぁ、そんなことわかりきってるから黙して語らないもんなのさ」なんて大人ぶって言うもんだから、わたし「じゃあ、海流は大人じゃないんだね」って言ってやったんだっけ(笑) でも、わたしの知ってる海流は、そんなことを言うような時にこそ生き生きしてくるような奴だった。ああ、懐かしいな。ホントに。
「……何? やっぱお祖父ちゃんとお父さんのこととか関係あるの? それ。なんかそういう時のあんた、らしくないっていうかさ……」
「う〜ん……そうなのかなぁ、やっぱ」
「へぇ、自覚あるんだ?」
「そりゃね、こういう性格してますから、考えずにはいられないわけですよ」
「そっか、そうだよね……」
 海流のお祖父ちゃんは大学の先生、お父さんは漁師だった。海流は小学校の時にお祖母ちゃんを亡くして、中二の頃にはお母さんも亡くした。お母さんは事故だった。わたしは海流のお母さんの事についてはよく知らない。海流が話したがらなかったから。当時のわたしはそんなこと、聞きたいとも思わなかったし……。いずれにしても海流はそういう事情もあって、未だ多感な時期から残り二人となった男親の間で、それも些[イササ]か奇妙な関係であったというその親子の手によって、ひとり養われることになったのだった。
「あの二人はもうどうしようもないからねえ……」
「折り合いがつかないってこと?」
「うん、もはや二人の間を繋ぐのは血筋だけ……。ほんと、単に『血が繋がってる』だけ」
「ふ〜ん、そうなんだぁ……」
 海流のお祖父ちゃんは地元の国立大学の先生で、一応学部長とかにもなった歴とした教授だったらしい。「一応」って言うのは当時のわたしが海流から話を聞いた限りでは、いろいろと問題の多い人でもあったようであるからで、それまでのわたしが知っていた海流のお祖父ちゃんというのは、国や県の原子力行政に対して強硬な姿勢で反対をしているらしいちょっとコワそうだけどきっと立派なんだろうと思われる大学の先生だった。わたしは一度だけその海流のお祖父ちゃんの原子力行政を批判する講演の場に居合わせたことがある、ような気がしていた。というのも、それがいつだったのかも、そもそもどうしてわたしがその講演の場に行くことになったのかも、全然思い出せなくて、そんな本当かどうかも疑わしい、ひどく曖昧な記憶だったから。だけど海流のお祖父ちゃんの顔には確かに見覚えがあるような気がしたし、その講演を聴いたいつかのわたしが、「この人の言っていることが本当なら、どうして原子力発電を推進する人達がいるんだろう?」って思ったという記憶が、海流の話を聴いているうちに不意に頭をもたげてきたのだった。それで海流にその記憶のことについて話したら、「原発反対かどうかは知らないけど、祖父ちゃんみたいなナリした大学の教授なんていくらでもいるからさ。きっとオレの話に触発されて合成された虚偽[ニセ]の記憶だろ」とだけ。わたしもそれ以上自分で確かめようとはしなかったから、それきり真相は闇の中ってやつ。ん〜、本当のところはどうだったのかな? もはや確かめようもないんだけどさ……。ま、別にいっか。それでそんな講演も行っていたという海流のお祖父ちゃんなんだけど、実は原子力関係とかが専門なわけでは全然無くて、なんか本当は人文科学系の研究をしていた人なんだとか。詳細は忘れたけど。ん〜、何だったかな? でも一時期は本職の人よりも熱心に原子力問題について調べたりもしていて、なんか海流の話によると、お祖父ちゃんのそういうところが海流のお父さんとの関係を悪化させる一因にもなっていたらしい。気になったことは自分の専門以外でも何でもすぐに調べ出して、でもそこは本職が研究者なだけあって流石にちゃんと調べるから、そのうちにそうやって調べた事柄に関しては一家言[イッカゲン]を持つぐらいのレベルにまではなっていって、それで最終的には雑誌や新聞に寄稿したり時々テレビにも出演してコメントしたりして……って、ん? おお?……あっ! だからわたしお祖父ちゃんの顔に見覚えがあるような気がしたのかな? なんかテレビか何かで海流のお祖父ちゃんが講演してる……もしくはそれに類する映像を見たとか? あ〜ああ、有り得る有り得る……ていうか、もうそれでいいや、うん、もうそういうことにしておこうよ、その方がスッキリもするし、恐らく真相の方もそのようなところであったに違いない。うむ、これにて一件落着なり。キュピィンッ!(決めのポーズ)……で、そんなしっかりしてそうな海流のお祖父ちゃんなんだけど、一見大人しそうにも見えて実は静かに燃え立つような性格の激しさがあったらしくて、こと仕事のこととなると周囲との喧嘩も絶えなかったようで、そうしているうちに次第に学会(学界?)でも孤立しがちになり自分からもそういう繋がりを遠ざけるようになっていって、それからは極端に外部への露出を嫌い出すようになったとかでテレビなんかに出演することもなくなり、自分の研究室に閉じこもっていることが多くなっていったんだとか……でも、お祖父ちゃんは家族とかにもそういう事の次第を話して聞かせるタイプの人じゃなかったから、一体何があったのか詳しいところは誰にもわからないんだって海流は言ってた。そんな話を聴いていた時、わたしはたぶんいつかどこかで聞いたんだろう『百年の孤独』っていう言葉をぼんやりと思い浮かべてた。それが小説のタイトルだって知ったのは、わたしが東京に出てきてしばらく経ってからのことだった。その当時付き合っていた彼氏[カレ]が文学青年だったの。でもまあ、そのことはいいや。それから海流のお祖父ちゃんは、元々お酒好きな人ではあったんだけど、そんな風になってからは益々お酒を呑む量が増えていったらしくて、そうしているうちにだんだんと、時と場所も選ばずにお酒を呑むようになっていって、いつしかお祖父ちゃんが着ているブランド物のジャケットの内ポケットには、常に携帯用のウィスキーボトルが入っているようになっていたんだって。それで最終的には、大学で講義をしている最中にも、まるでお茶でも飲んでノドを潤すみたいにしてお酒を呑むのが当たり前になっちゃってて……でも、そんな海流のお祖父ちゃんの振る舞いを注意したりする人は、もうどこにも、家庭[ウチ]にも大学にも、いなかったんだって、海流のお祖母ちゃんやお母さんが、亡くなってからは……。
「祖父ちゃんはもはやただのアル中だし、親父は相変わらず海の男を気取っているし……」
「気取ってるの? わたし的には海流のお父さんこそ『ザ・海の男』って感じなんだけど」
「う〜ん……、きっとみんな……親父自身も含めて、そんな風に思ってるんじゃないかと思うんだけど……、オレや祖父ちゃん、それから死んだおかんや祖母ちゃん以外は……。でもそこが親父の凄いところだっつうか、厄介なところでもあるっていうか……」
「どういうこと? 本当はそういう人じゃないってこと?」
「うぅ〜ん……そうであろうとなかろうと、一度自分でそうと決めたら何が何でも押し通そうとするというか……なんというか……」
「男らしいじゃん」
「確かにそうなんだけど……そうとも言えるんだけどねえ……、なんか親父の場合は普通なら意識されないような根本的な選択をする自分すらも自分で決めちゃってて、そんで自分でそう決めたからそうしてるっていうかさ」
「う〜ん……わたしにはいまいちよくわかんないんだけどさ、多かれ少なかれ、みんなそうなんじゃないの? まぁ、個人差はあるだろうけど……」
「うん……そう、そうなんだけどさぁ……〈意識〉があるっていうのはまさにそういうことなんじゃないかと……まあ、オレは勝手にそう思ってるんだけどさぁ……、でもなんか親父の場合は……、ちょっと……ていうか、かなり? おかしいぐらいなんだよね。見てるこっちが落ち着かなくなるっていうか……」
「無理してる感じがするってこと?」
「う〜ん……というかね、なんかもう、とにかく『おかしい』の。なんかこう……もはやどこがどうって指摘するまでもないくらいに、なんかこう……根本的な……そう、それはきっと……もっとずっと根深い部分でさ、そこで既に何かが、なんかもう決定的に『おかしくなってる』って、なんかそういう感じがするんだよね……」
「……なんかコワいね」
「そう、まさにそんな感じ。見てるこっちが落ち着かなくなるっていうのは」
「昔からそういう人だったの?」
「……オレも昔、一度だけおかんに、そういう質問……したことあるんだよね。小五ぐらいの時だったかな、確か……、でもやっぱ考えてみたらおかしな話だよな、子供が自分の父親見ててさ、『お父さんって昔からああいう人だったの?』なんて問い質[タダ]すのは」
「……それで、お母さんは何て答えたの?」
「ん? ああ……、『わたしがあの人と知り合ったのは二十歳を過ぎてからだから、正直それまでのことはよく知らないんだけど……、でも……あの人はああいう人よ、きっとね。だからあなたも……、そう思っても、大丈夫よ。だってわたしは、あの人と結婚したのよ、あの人を選んで、あの人を受け入れもして、そうしてできたあなたを産んで、あの人がいたから、あの人がああいう人であったから、わたしは……、あなたのお母さんにもなれたのよ。……かいる、あなたはえらい子ね、これからもそうやって……、あなたも、お父さんのことをちゃんと見ててあげてね』って」
「……なんかすごいね(あんたの記憶力も)」
「うん、オレも……幼心[オサナゴコロ]にもそう思った。だからさ、おかんが死んじまった時は……、そりゃもう悲しかったね。もうどうしようもないくらいに落ち込んでさ、何でだよ! こんちくしょう! あんなだったおかんが昼間っから酒呑[ノ]んで酔っ払ってるような奴に車で轢[ヒ]かれて死ぬなんて、そんなの納得できねえよ!ってさ、でもさ……あんなおかんだったから、親父の方がきっと……オレよりも、もっと辛かったんじゃないかって……、おかんを送る時の準備なんかも、何彼[ナニカ]と気遣う周囲を横目に、全部自分で、率先してやってさ、そんで今でも忘れられないのが……、おかんの告別式の時に……おかんを轢いた奴が、選[ヨ]りにも選[ヨ]って手前[テメエ]の妻子を引き連れてノコノコとやって来やがってさ、オレほんとに……そんなの関係無しに……殺してやろうかと思ったよ、その辺にある傘でも何でも取ってさ、余っ程、刺し殺してやりたい!って、本気でそう思いながら、そいつを睨みつけてた……。そしたらさ、親父がすっとオレの横に立ってさ、何も言わずにじぃっとオレの眼を覗き込んでくるんだよ。あれは……オレを諫[イサ]めるっつうか……、たぶん親父はオレに何かを言いたかったわけじゃなくて、ただ……見せたかったんだと思う……、自分がどれほどの感情に堪[タ]えているのかっていうその眼を、その顔貌[カオ]を……、オレその瞬間のことを思い出すと……、未だに少しギョッとしちゃうんだけどさ、あれはもう……ほんとに……人でも獣でもなかったよ……、とにかくもう凄い眼をしてた……。でさ、オレは親父がそんなんだから……、そんな親父がいる限りは……、もう何にもできなくなっちゃってさ、そこからはもうずっと……、ただじっとして、しばしば親父のあの時の顔貌[カオ]も思い出しながら、ただ独り、やり場の無い感情の渦には流されまいと、必死で堪[コラ]えてた……。でね、親父のやつ言ったんだよ、焼香を済ませた……おかんを轢いた奴にさ、『お前、俺の女房に詫[ワ]びたのか? こんなことになって済まないと、ちゃんとそう詫びたのか?』って……」
 その辺りからちょっと、海流は泣いているみたいだった……。声が、顫[フル]えていたから……。
「親父言ったんだよ、『……そうか、詫びたのか。でもなあ、俺にはな、お前の肚[ハラ]の底までは……、どうやってもわからない。だからなあ、俺は信じるしかねえんだよ、お前がちゃんと女房に詫びたって、そう言ったお前の言葉を、俺は……それを信じるしかねえんだよ。わかるか? 俺の言っていることが。だから言うぞ、俺はお前に言うぞ! 俺はなあ、もう絶っ対にお前のことは許せない! この先何があっても、もうそれだけは無理だ! だってなあ……お前知ってるのかよぉ……、あれがどんな女だったか……ちきしょぉ……、いいか? だからなあ、俺は言うぞ、お前に言うぞ、俺はもうお前のことは絶対に許さない! いいか? だからもうそこは諦めてくれ、俺はお前を許さん! 絶対に。……だからお前にはもう、これ以上は何も望まん。金なんかもらっても……たとえ何されようが、俺の胸糞[ムナクソ]が悪くなるだけだ。……もういい、帰ってくれ、後は好きにしていい、酒を呑んでもいい、車を運転するのもいい、昼間っから呑むのも……それはお前の自由だ、俺はそれを認める、けどなあ、昼間っから酒呑んで酔っ払って、その上車まで運転するのは……、それだけは、もうやめにしてくんねえか、それ以外は何したっていい、今まで通りに……好き勝手やって生きたらいいさ、でもなあ、お前……いいか? 忘れるなよ、お前がそうやって俺の女房を車で轢いたんだってことを、その結果……俺の女房がああなっちまったんだってことを! いいか? お前は忘れるなよ! この先何があっても、たとえ俺がお前のことは忘れても、お前は絶っ対に忘れるんじゃねえぞ! いいか? お前は忘れるなよ!……もうわかったんなら、とっとと失せろ!』ってさ……」
 海流はところどころで啜[スス]り上げるようになりながらも、そこまでを話し終えてしまうと、少し黙った。わたしは海流が、それをまるで自分が言われたみたいにして、一言一句違[タガ]わずに覚えているようなのをまた、聴きながらに驚いていたんだけど、それ以上に、そのことについて思い出している時の海流が、とても辛そうで、それは聴いているだけのわたしでも、辛くなってきちゃうような話だったから……、でもわたしは、海流がそれを話し続けようとする限りは聴かなきゃいけないって、わたしがそれを途中で止めるような真似は絶対にしちゃいけないって、何故だかそう思って、じっと海流が語り終えるのを待っていたの。わたしも時に、痛みを感じながら……でも、わたしの痛みと海流の感じている痛みとでは、きっと違うんだろうなって、そしてそれは、決して比べたり、確かめたりすることもできないんだろうなって、なんとなく、そんなことも考えていた。そう、あの時は潮風が、目には見えない傷口に、凍[シ]みるようだった……。
「……でね、そのおかんを車で轢いちゃった人なんだけどね、オレがちょうど高校に入るぐらいの頃に……首吊って死んじゃったんだ。それでさ、遺[ノコ]された家族も、みんな、何処かへ引っ越したんだって。……親父が殺したんだよ」
 わたしはもう、何て言っていいのかわからなかった……。ただこう……、外の世界はこんなにも、いつもと変わらずに穏やか(そう、まだあの時は……だけど)なのに、どうしてこのわたしたちの心の中ってやつでは、こんなことが起こっているんだろうって、ああ、そっか、こんなことを考えてしまえるからダメなんだって、「そこにある」、「それはある」って言えるものからは、わたしたちはもうどうしようもなく切り離されちゃってて、またその切り離されちゃってるっていうそのこと自体からも、もう避け難く切り離されちゃっているから、それはもう本当に別々で、その他のものとの間に生じちゃう隙間みたいなところに、このどうしようもなく何かを否定したり、本当には無いものまでをもまるであるかのようにもできてしまう「言葉」っていうやつが入り込んでくるような余地もまた生まれてきたのかなって、いや、でもそれはちょっと違うのかなって、それはもうこの「言葉」っていうやつが既にあったからそうなのかなって、きっとこの「言葉」っていうやつが何よりもまず先にあって、それがあるから、そんなものがあることによって、「わたし」とかそういうものも全部、こうした一切が、続々と生じてくるようになっちゃったのかなって、でもこの「言葉」っていうやつが一体いつどこからやってきて、どうしてそんなものがあって、どうしてこんなものがあるようになって、それでどうして「わたしたち《だけ》」が、それを用いるように……いえ、用いらざるを得なくなるようなことにまでなってしまったのかって、でもそんなことはきっと、わたしたちがこんな風にして「言葉」を使って考えている限りは、わからないことなんだろうって、だってわたしたちがこの「言葉」っていうやつを用いて考えるしかないのなら、たとえば、そもそもこの「言葉」っていうやつがあるようになる前はどうだったの?っていうような、そんな他でもないこの「言葉」っていうやつをもってしても、もうどうにも、どうすることもできないような事態に直面しちゃったとしたら、きっとそれが誰でも、本当に、もう何にも言えなくなっちゃうから……、そう、あの時みたいに……、そうでなきゃ、適当な嘘を吐[ツ]いたり、ありもしないデタラメを言ってみせるより他に仕方がないのだもの……。当時のわたしも、まだ「考える」というほどではないにしろ、ただただ漠然としてではあるけれど、きっと同じ様なことをなんとなく、それは本当になんとなく、「感じて」いたんだろうなって、現在[イマ]になってわたしは思うの、それもまたなんとなくではあるんだけれど……。でもこの「なんとなく」をそんな「なんとなく」のまま終わらせてしまったのならそこまでだけど、この「なんとなく」をそんなただの「なんとなく」には終わらせまいとして何かしらの抵抗をしてみせようとするまさにそのことこそが肝要[キモ]なんじゃないかって、なんかそんな如何にもありがちな、きっとどこかの誰かに「これぞ成功する秘訣です!」とかなんとか言って大仰に然[サ]もありなんとして誇称されてしまっていたりなんかもしていそうな、そんな当たり前過ぎるようなこともたまにはまた、なんとなくなんとなく、こんな風にもまた、考えてもみたりなんかして。そう、時にはまた、流れるまま、流されるままに……。
「『はじめにことばがあり、ことばは神のところにあり、ことばは神であった』だっけ?」
「おお、どうした急に? 啓示でも受けたのか?」
「ん?……ふふっ、そうかもね(笑)」
「ははっ、そっか(笑) それじゃあ、その経験を大切にして……、日々精進していかないとね。それが単なる……独り善がりの妄想で終わってしまわないように……」
「ん? ん〜……うん、そうしよっかな」
「……そうすれば、きっと……そうする人が一人でも多ければ、きっと……こんな世の中だけどさ、きっと……また善くなるさ、きっとね」
「……うん、なんかそんな気がしてきた(笑)」
「ほら、オレらお互いに妄想族だから(笑)」
「はは、わいちゃうもんねぇ〜」
「もう、どんどん湧いちゃうからねぇ〜」
「ははっ……」
「ふふ……」
「ね、ホント、そんな風になったらいいね……」
「……時間大丈夫なの?」
「えっ? ああ……うん、大丈夫。ほら、もうこんな時期だしさ(笑) だいじでしょ」
「ん? だいじ?」
「ふふっ、栃木出身の子に教わったの。栃木弁で『大丈夫』って意味なんだって。ふふ、なんかいいでしょ?(笑)」
「うん、なんか気に入った(笑) 『だいじ』か……うん、もう意味わかるから、使ってもだいじ、だいじだいじ(笑)」
「うん、だいじだいじ(笑)」
 本当は時間なんか大丈夫じゃなくても、海流とずっとそうしていたかった……。こんな時には「このまま時間が止まればいいのに……」なんてセリフをのたまうのが年頃の女の子としては可愛げがあってよかったのかもしれないけど、当時のわたしはというと、「時間なんて止まっちゃったら、死んじゃってるのと同じことなんじゃないの? それって要するにさ、『自分にとっては都合の良い瞬間なり時間なりが、このままずっと終わらずに続けばいいのに……』っていうことなんじゃないの? あと他のことはどうでもいいやって。なんかそんな自分勝手な物言いに聞こえて、わたしはイヤだな。『時間』ってさ、自分一人だけのものじゃないんだからさ」なんて屁理屈を言ったりしてました(苦笑) はは……うん、これはきっと海流のやつから受けた悪影響のせいに違いない。そうだ、そうに決まってる! あんにゃろめ。「わたし」を形作りおってからに……。
「……キリスト教のキリストって『油を注がれた者』って意味なんだって」
「え? どしたの? 急に……」
「いや、そっちが先に言い出したんだろ。『はじめにことばがあり……』って」
「あっ、そっか。あれ聖書の言葉なんだっけ? すっかり忘れてたよ(苦笑)」
「はは、ちさとらしいや。まっ、オレも似たようなもんか……」
「で、何さ?」
「うん? ああ……あぁ、でもやっぱいいや、ほら、またお得意の誇大妄想だから……」
「何それ? あんた自分の彼女と話してるんだから、別に誇大妄想がどうたらとか関係無いじゃん。話したいなら好きなこと話したらいいのよ。わたしだって……あんたの話、聴きたいんだしさ」
「ん〜、そっかぁ……」
「あっ……(やだ、わたしってば自分でそんな……ドキドキ。)」
「ん? どした?」
「ん〜ん、別に、なんでもない……ぷいっ(赤面)」
「ふ〜ん、そ……。でさ、オレやっぱ、うちで話す相手となると祖父ちゃんだけだろ?親父のやつはもう盆と正月ぐらいにしか帰って来ないし……」
「え? そうなの? 何で? 年中漁に出てるわけじゃないでしょ?」
「本人は漁閑期[ギョカンキ]の出稼ぎだって言い張ってるんだけど……、なんかあいつ他にも住居[スマイ]があるっぽいんだよねぇ。さすがに持ち家ではないと思うんだけど……、たぶんアパートとか借りてさあ、あいつ何気に稼いでやがるし」
「海流のお父さん漁協の人たちとかの間じゃ、ちょっとした有名人だもんね。なんか名物船長みたいな(笑) わたしあの『高見丸』って名前、けっこう好きよ」
「そう? ただ名字に丸つけただけじゃん(笑)」
「なんかわかりやすいし、字面[ジヅラ]もスッキリしててさ」
「ふ〜ん、人それぞれってわけね……。まあ、オレは親父の仕事関係のこととかは全然知らないし、あいつ男やもめになってからはもう、とにかく家には寄りつかなくなったからさぁ……、全く何処で何してるんだか……まあ、オレは別にいいんだけどね、いたらいたでうるせえしさ……」
「そっか、やっぱりさみしいんだね……そうだよね」
「おおい、ちゃんと人の話聞いてたか?」
「うん、聴いてた。ちゃんと、聴いてるよ」
「う、う〜む……、まあいいや」
そう言って海流は、午前の薄日[ウスビ]に燃える沖合の方に目を上げたんだけれど、その時の海流の横顔は、やっぱりちょっと、寂しげに翳[カゲ]っているように見えた……。
「ねえ、あんたのお父さんが家[ウチ]に帰って来ないのって、やっぱりお祖父ちゃんのことが関係あるの?」
「つうか、それだけだね、理由は。たぶんいつか祖父ちゃんがぽっくり逝っちまったら、何食わぬ顔して戻って来やがるんじゃねえかな。将来的には水産加工業の方に乗り換えるつもりだとかなんとか抜かしていやがったこともあったし、それにあいつ何だかんだ言っても地元が好きだからさ」
「ふ〜ん……、それなら早く、戻って来たらいいのにね」
「ふん、どうだか。その頃にはオレがいなくなってるかもしんないしな」
「えっ? 地元出る気あんの? ていうか、卒業してからどうすんのか決めたの? あんた結局一コも受けなかったんでしょ?」
「うん、そう。とりあえず今回は進学しないことにした。大学なんて幾つになってからでも行けるもんだしさ」
「まあ、そりゃそうだけどさぁ……」
「それに祖父ちゃんがあんな常態だからさ、いつどうなるかわかんないし、親父のやつが帰って来ない限りはオレしかいないから、その間はちょっとね……、地元の大学には行く気しないしさ。ちさとは東京だっけ? ××大だろ? さすがだね」
「いや、別にそうでもないっしょ」
「オレの成績から言ったらそうさ」
「……ねえ、以前[マエ]から聴こうと思ってたんだけど、あんた一体何になりたいの?」
「ん?……ちさとは? 何になりたいの?」
「む……、わたしはまだわかんないから、大学行ってそれを考えるの! で? あんたは?」
「ふふ、オレはねえ……哲楽者か猫仙人」
「ふ〜ん、そっかぁ、やっぱ哲学者かぁ……」
「おい、猫仙人はスルーかよ!」
「そんなしょうもないボケにはいちいち付き合ってらんないわよ」
「割と本気なのに……。それに哲学者じゃなくて『哲楽者』だかんね。楽しんじゃう方」
「何よそれ? またしょうもないことを……」
「そう? 強[アナガ]ちそうとも言えないかもしんないよ? ほら、オレはやっぱ学者向きの性格じゃあないからさ、それに〈知〉のあり方っていうのは、〈学知〉ばかりでなし、もっといろいろあっても、というか、もっといろいろあった方がいいと思うんだよね。だからさ」
「そういう難しい話キライ。ていうか、それこそなんか誇大妄想的な話なんじゃないの? わたしにはよくわかんないんだけどさ、なんとなく」
「はは、確かに。そういうとこは親父に似たんだな。手先の器用さはおかんに似たし」
「お父さんもそういう感じなの?」
「『も』じゃねえよ、オレは親父なんかに比べたらかわいいもんさ。オレは単に自分の頭ん中でああでもないこうでもないって好き勝手なこと考えて楽しんでるだけなんだからさ。別に誰に迷惑かけてるでもなし。話す相手なんてお前ぐらいのもんだしさ」
「じゃあ、わたしに迷惑かけてんじゃん」
「……じゃ、やめた。もうおしまい」
「……ガキ」
「あ? どっちが?(ちょいイラッ)」
「……。で? お父さんがどうしたの?(何食わぬ顔)」
「……ったく、親父はああ見えて大学院まで行っててさ、修士課程までだったかな? 確か。△△大でさ、祖父ちゃんと似たような研究してたんだよ」
「え? そうなの? マジで? すげぇ……」
「意外?(笑) んで、ほら、祖父ちゃんは最終的には○○大でさ」
「ま、まあ……それはわかるけど……」
「あっ、それから祖母ちゃんは□□大出身」
「あわあわ……あ、あんたんちって学歴が、ご、ご立派でござぁやすのねぇ〜(裏返る声)」
「な? オレばっちり落ちこぼれてるって感じだろ?(笑)」
「……ちったあ勉強したのかよ、お前。ノートのコピーは渡してたはずだけど?」
「うん、ありがとう。お蔭様でなんとか無事卒業できそうでござぁますのよ?」
「……ふん、別にそんなことはどうでもいいんだけどさ」
「ふふ、ありがとな、助かったのは本当だよ。オレには学校の勉強は難し過ぎるからさ」
「そうなの?」
「うん、本当。オレニハ難シ過ギテ頭イタクナッチャウノ。それに……どうしてもできるようになりたいとも思えなくてさ。そしたら本当にできないままだったアルヨ、ハハハ」
「ふ〜ん……、そっか」
「うん、そうだ。……でもね、オレがこんな落ちこぼれでも親父とかに対して引け目を感じなくて済んだのはさ、きっとおかんがああいう人だったからだと思うんだ」
「どういうこと? お母さんはどこだったの?」
「おかんはね、高卒。大学行ってないの。卒業してからは実家の酒屋手伝っててさ」
「へぇ〜、そうなんだぁ」
「でもさ、うちで一番賢かったのはおかんだったよ、間違いなく。みんなそう思ってたと思う。……何て言うか、『人間』っていう生き物のあり方として間違っていなかったっていうかさ。なんか、そういう感じのする人だったよ……」
「(よくわかってない、けどなんか聞きにくい)……お祖母ちゃんはどうだったの?」
「祖母ちゃんはもうさ、常に祖父ちゃんの後ろを三歩も四歩も下がって歩くような人でさ、自分の趣味だったお茶(茶道)の時間以外は全部、家のこととか祖父ちゃんの身の回りの世話とか、あと婦人会? だったかな? なんかそんな感じだったよ。……でさ、祖母ちゃんは最期の方はちょっと……ボケちゃっててさ、おかんが定期的に祖母ちゃんに電話したりすることで実家との関係を取り持っていたらしいんだけど、それで祖母ちゃんの異変にも気がついて……、それで一緒に暮らすようになったんだよ」
「そっか、そうだったんだ……それで?お父さんの方は?」
「ああ、そうだったっけ……、親父はさ、あんな感じだけど……ほら、パワーは尋常じゃないっつうかさ、ちょっと普通じゃないっていうのは、そういうところも含めてのことでさ、熱心に研究してた頃も、周囲から一目置かれるっていうか、人一倍目立つっていうか、そういう存在だったみたい」
「なんかわかる気がする」
「んでさ、ああいう性格だから、研究の方でもちょっと……強引に過ぎるぐらいに物を言い切るようなところがあったらしく、それもオレオレ感全開で……まあ、酔っ払った祖父ちゃんから聞いた話なんだけどね。親父にはとてもそんなこと聞けないし……」
「どうして?」
「いやね、親父が研究やめて漁師になったのは祖父ちゃんが原因らしくてさ……、まあ、祖父ちゃんが言うには、祖父ちゃんがそうしなくても遅かれ早かれそうなる運命だったんだって、そう言ってたけど……」
「どういうこと? わかんない」
「う〜んとね、まあ、こんなことをいつまでも長々と話してもあれだから……、端的に言うとだな、親父の修士論文……まあ、卒業論文みたいなのを祖父ちゃんがバッサリ切って捨てたんだよ、なんか親父のいた研究室の先生が祖父ちゃんの昔からの知り合いだったらしくてさ、んで、親父の書いた論文がちょっといろいろと問題も多かったとかで……、でもなんか相手によっては、その親父特有のパワーに押されちゃってなんとなく煙に巻かれちゃう……っていうなんかそういう内容だったらしい、オレは読んでないから確かめようもないんだけどさ……、親父は研究やめると同時にその時代のものは全部処分しちゃったらしいし、祖父ちゃんはあんなものは手元に残しとく価値も無いって……」
「ふ〜ん……」
「んでさ、その……親父はああ見えて繊細なやつだから……ぐうの音[ネ]も出ないぐらいに叩かれて、立ち直れなかったらしい……」
「え? そうなの? なんかイメージと違う」
「そりゃさ……本当は人間なんて単純にこうだって言い切れるようなもんじゃないよ。あいつはこういう奴だからとかなんとかってさ。考えてもみろよ、現にオレやお前だってそうだろ? お互いにわかり合ってるような気になってるだけで、本当は自分で自分のことさえも……本当は、何一つわかってなんかいないんじゃないかって……そう思う時がある」
 その時、当時のわたしは「何でそんな寂しいこと言うの?」って思ってた。なんか急にどうしようもなく突き放されてしまったような気がして……。そんなこと言わないでさ、嘘でもいいからさ……って、そう、やっぱりそうなんだよね、そりゃ単純に「嘘」っていうのとは違うような気もするけどさ……、本当はお互いにそう「言って」、そう「言う」ことにしておこうよって、本当は、そんな風にしてお互いを労[イタワ]り合ってるだけなんじゃないかって……わたしも、そう思う時がある。
「それに……親父からしてみたら、きっと……いや、これはオレの推測に過ぎないんだけどさ、たぶん親父は祖父ちゃんが『わざわざ』口を出してきたって、きっと、そう思ってるんじゃないかって……、もしそれが祖父ちゃん以外の奴だったとしたら、そこまで追い込まれたりしなかったんじゃないかって……なんかそんな気がする。オレだってさ……」
 現在[イマ]になってわたしは思う、あの時、海流の中には二人の、それも相異なる「父親」が二人も……、なんか変な言い方だけど、あの時の海流の中ではきっと、二人の「父親」が「機能」していたって、なんかそんな気がする。もっとも、これもわたしの推測に過ぎないのだけれど……。
「そっか、それでか……」
「うん……でさ、オレは思うんだけどさ、そりゃ確かに親父の方にも問題はあったんだろうけどさ……、祖父ちゃんだって……、祖父ちゃんに言わせればきっと、わたしは一介の学者としてやるべきことをやったまでだ、とかそういう言い方をするんだろうけど、なんていうかさ、祖父ちゃんは確かに仕事の『方は』きっちりとやったんだと思うんだよ、でもさ、オレ思うんだよね、ひょっとしたら祖父ちゃんはそっち『しか』ちゃんとやらなかったんじゃないかって、祖父ちゃんが仕事と同じくらい親父とちゃんと向き合ってて、それは別に過保護にするとかそういう意味じゃなくてさ、せめて自分の息子がどういう奴なのかってことぐらいを少しでも理解してれば……、だってさ、一緒に住んでりゃ毎日のように顔合わせる時期だってあるわけで、別にたいしたことじゃなくても、一言二言でもさ、話すことぐらいはさ、できるでしょ? そうしようと思えば……。んで、ああ、あいつ今日は機嫌が悪いな、とか、なんかいつもと違うな、とか、少しは成長したな、とか……」
「……きっと、海流はそうして欲しかったんだね。でもそれは、どっちかって言うと……お母さんの役目って感じが……、あっ……ご、ごめん……ホントに、ごめん……」
「……いいよ、別に。きっとそうなんだろうし……。でもさ、オレ時々思うんだよ、本当は〈父〉や〈母〉としての役割に男か女かなんて関係無いんじゃないかって……。そりゃさ、男には子供なんて産めないわけだし身体も全然違うし……、決して同じようにはできないっていうのはわかるんだけどさ、でもそうせざるを得ない環境の中でも子供がちゃんと育った例なんていくらでもあるわけだし、ほら、なんていうか……、『親は無くとも子は育つ』って言うだろ? 確かにそうなのかもしれないけどさ……、オレ思ったんだよ、人の子がこのような社会で『人間』として生きていくためには、たとい親は失[ナ]くとも、何らかの形での〈父〉や〈母〉は必要なんじゃないかって……逆に言えば、そこさえしっかりとしていれば……そうであれば、〈父〉や〈母〉としての役割を担い切れないような男女がわざわざ親として子供を養うくらいなら……或いは……」
「え? 何言ってんの? わたし……わかんない……。ねえ、あんた……、大丈夫?」
 わたしは思う、海流に本当の意味での「父親」はいたのだろうかと。わたしの思い違いかもしれないし、そうであって欲しいような気もするんだけど……、ひょっとして海流にはあの二人の「男の親」しかいなかったんじゃないかって。それも二人の間にはあんなことがあったから、既に一方の男親がもう一方の男親にすっかり「息子」として追い落とされてしまっていて、その後もその影響のせいで海流のお父さんは本当の意味での海流の「父親」としてはいられないようなことにまでなってしまっていて……、それでもう一方の男親の方はと言うと、つまり「海流の父親としてあるべきはずであった男親の父親」としてはあったんだけど、それは決して海流の「父親」ではなかったわけで……、ちゃんとした「母親」としてあれたであろうお母さんは不幸にも亡くなってしまっていて……ああ、わたし、何を言ってるんだろう、なんかわかんなくなってきた……そもそも「父親」って? 「母親」って? 海流は、海流なら……何て言ったんだっけ……。
「……は言う、〈父〉とは〈掟〉であり〈法〉であり、〈母〉とは〈理〉であると……。天上よりあれと言い給ふ〈父〉と〈母〉なると称されし海や大地……。おお、〈父〉はいずこへ……〈母〉はあるのか? 汝[ナンヂ]、天上の〈父〉を知るに能[アタ]はず……汝、〈父〉の言[ゲン]に言い付かる者よ、汝、疑うことなかれ……汝、決して試みてはならぬ……〈母〉はどうだ?……汝、〈理〉を解[ト]け、汝、汝自身を知れ、〈理〉とは事割りであり、それは即ち『断り』であると……汝、〈理〉より分かたれし者……汝、〈理〉を拒絶せし者よ……汝、汝自身を知れ……そうか、知ってるか? 〈宗教〉の『宗』って『根本』とか『おおもと』っていう意味を持つ漢字なんだよ、この国じゃ〈宗教〉っていうと全てその漢字を用いてる……そもそもどうしてそんなことを教わらなければわからないんだ? それは……もはや如何ともし難く切り離されてしまっているから……、気がついた時にはもう分け隔てられてしまっているから……、もはや『ある』時にはもう……そうか……だから言う、わたしは言う、〈意識〉とは抵抗であると。われわれはもはや、水の中の水のようにはいられなくなり……そして、水の中の油の如くあるようになり……、油を注がれた者……その教えを請うて……、流れに逆らうように……われわれもまた流体中の物体としてあり……、抵抗を感じ、抵抗を受け、抵抗せよと促しもし、他でもない抵抗を、ありとあらゆるものに抵抗を……既に……今も、常に……、抵抗を……抵抗をし続けて……いる。そう、故に〈意識〉とは抵抗である。またそうであれば、そうであるからこそ、〈意識〉が高まれば昂[タカマ]るほど……〈意識〉こそが抵抗であるのなら……そうか、だからか……人の子が『道理』だの『真理』だのっていう言い方をするのは、〈理〉より分かたれ分からなくなった人の子が……、言ってしまえば、『既に〈理〉より分かたれてしまっている』という〈理〉でもあるわけだ、故に人の子はその〈理〉をすら拒絶してみせる、〈意識〉あっての人の子であり、そもそも〈意識〉とは抵抗であるから……。そうか、故に〈母〉とはそのような人の子をすら受け容[イ]れかつ包み込みもするような〈理〉としてあるべきで、〈父〉とはそのような人の子の抵抗をさえも許さじ戒めんとする〈掟〉、〈法〉としてあるべきで……そうか、そういう意味ではおかんも祖父ちゃんも……、しかし〈父〉としての役割が後の子に引き継がれもし得るようにしなければならないとすれば、やはり……祖父ちゃんが親父にしたことは……親父はそれに抵抗して……抵抗し続けているっていうのか? 『抵抗の仕方』にもいろいろある、か……」
 わたしは正直、海流が何を言いたかったのかなんてよくわからなかったけど、ただなんとなく、そこまでしなきゃならないのは悲しいことだなって思ってた。だって、自分が自分でなくなっちゃうみたいにまでなって、ちょっと普通じゃない状態になってまで、何かについて必死になって考えていて、あいつは自分で楽しんでやっているなんて言っていたけど、わたしにはとても、悩み苦しんでいるようにしか見えなかったから……。確かめようのないことばかりで、相談できる相手もいなくて、誰も教えてくれなくて……、それで海流はまるで啓示でも受けたみたいにして、そう、ああいうのをやっぱり「神がかり」って言ったりするんだろうかって、でもあれは……「神さま」っていうより……、そう、やっぱりはじめに「言葉」があって……ということなのであれば、「言葉」はきっと「神さま」にも等しいはずで、わたしは一口に「神さま」って言っても、いろいろとありそうなものだとは思うんだけれど、でもきっと「神さま」は「言葉」でもあって、それだからきっと「『神さま』の『言葉』」っていうのは「『言葉』の『言葉』」でもあるわけで、そうなると「言葉」で言える限りのことは何でも言えるようにもなっちゃうのかなって……、そういう風に考えるとああいう時の海流はきっと、自分が何者であるのかとかそういうことをもうとにかく全部度外視して、ただ言葉を……そう、言葉で言葉を……それは言葉の言葉を言葉でも言うような……そんな状態にまで自分を持っていって、それで自分の知り得る限りの言葉を用いて、それに堪[タ]え得るような人格[ヒト]にまでなったみたいにして、あんな風に語り出してもみせていたのかなって……。そう、あれは海流にとって、もはや事実であるかどうかを確かめたりすることが困難になっているような物事について、それでもなんとか考えるための、一つの「方法」であったのかもしれないって、そんな気がして、でも本当のところがどうであったのかについては、直接海流に確かめることはもうできないから、わたしはきっとそういうことだったんじゃなかろうかと、とりあえずはそう思うことにしている。現在[イマ]のところは……。
「……んで何? もういいの? わかったの?」
「ん〜? ああ……、とりあえずはそう思ってても問題無いのかなぁって」
「はあ? 何それ? あんたそれでいいの?」
「ん? まあ……、これ以上はいくら考えても、どうせ今すぐには確かめらんないし、自分の中ではちったあ整理できてきた気もするし……、それに間違ってたらまた考え直すしさ」
「結局あんた何について考えてたの? 何が言いたかったの? わたしにはよくわかんない」
「そりゃさ、このような人の子とは一体どういうもので、どうあるべきかってことさ」
「ふうん、そ……」
「うん、きっとそう」
 その時、潮の香る微風がわたしの嗅覚をツンとして、それでわたしは自分が海流と二人で午前中の渚を眺めながら防波堤の上に並んで腰掛けているのだということを思い出した。
「うぅ寒っ……ていうか、もうそろそろ限界かも(プルプル)」
「うん……オレも今そう思テタヨ(ブルブル)」
「なんか今日は一杯話したね。いつにもまして……」
「……うん、今まで話しにくかったこととかも、少しは話せたような気がする」
「もうすぐお別れだからかな……」
「……東京なんてすぐだろ」
「うん、そうだよね……」
「あっ、お前あの日を楽しみにしていろよ。目下制作中だからさ」
「ん?」
 わたしはその時、海流が何のことを言っているのかさっぱりわからなかったけど、なんとなく、そのままにしておいてしまった。また今度聞けばいっかって……。
「……じゃ、わたしそろそろ、ゆっことかと約束あるからさ」
「あっ、そうだ。今日うち来ない? 祖父ちゃん出張でいないんだよね。泊まってけよ」
「……そうもいかないのよね、お父さんがうるさいから。お母さんの方はなんかあんたのこと気に入ってるみたいなんだけど」
「やっぱオレはおかんの方が好きだな(笑) 父親はどうもね……」
「お父さんだっていろいろと大変なのよ」
「……うん、そう思うよ」
「じゃ、わたし行くね」
「……オレさ」
「ん? 何?」
「卒業したら、小説でも書こうかと思っててさ、バイトでもしながら」
「ふ〜ん、そうなんだ……。いんじゃない? あんたが言う『小説』って、わたしにはよくわかんないと思うけど」
「別にそんなこたあないでしょ。……わたしは言う、〈小説〉とは小さきものから説いてもよいということの一つの顕れであると」
「……そういうことは書いてから言えよ」
「了解」
「んじゃ、ま、とりあえず楽しみが一つ増えたということにしておくわ」
「おう、期待せずに待っててくれい」
「……楽しみにしとくよ」
「へい」
「じゃ、今度こそ……さよなら」
「……また逢う日まで


 ――そう、そしてその後の現実っていうやつは小説よりも……。