日の国や月の下

重呪闡明

月に枝豆、危機に猫。(SinX)

──現在知を、確認せよ。



ゲンシソウシゲンソウシイ来伝脳警備武危機管理対策室通宵……Brain……到着。



それにしても……監視監督とはまるで、脆弱性そのものではないか。


ヱッ、そうなの? 弱いから、なんだ?


ふ……そんなの、理解[ワカ]ってイノレ〔ill/祈れ〕よ、知れた事。


ひびしょうじん、脅威奸心、因子伝卜……相胎する我々が天敵nano蛇殻ヒ肉な物だ。



──智理、脳内環境を



原罪について。禁ずる、


(──神鳴り……)


……がイブ……元はAだな、……確かシュウチしたはず……自セイ……シン──ナニ? 蛇ソクだと?──まさか、コウセンチュウだぞ? 自重しろ。──リョウカイした、散り落ちる。


実は双子だ。罪と罰も。「わたし」は感じる。丕図[ヒト]は考える。迷い続ける我々を、おさめよう、今こそ、「生[ナ]ル」ように、あれ、求めよ、遺そう、知に織り裁つ時。


──……over.

月に枝豆、危機に猫。(ヱキス)

「キキ」現われ、じじこくこく、暗黒の〔chrono〕宇宙[ソラ]、光明、字告げつ覚えつ、本に存在、全くもってkiki力イカイ、不明の原野に知の芽吹き、有リ卜アル、子ら、時空のみなしご「ヒト」はいとし子、言寄せる。もうしご。ひとよみやしろいしかたく……。

月に枝豆、危機に猫。(U4)

ココキユウキヨジツワ夕シ卜ワ力ナ夕ヱ卜ツズイテイノレソウデス夕シ力二
夕ツキヨリミチ卜オマワリ力ラノチ力クヱス卜ボケノレコシメノレシネノレシノレシ
ウヱムク口ノホラ二スマイキズクコクウノオ卜シゴアケノレヨミヱノイリ口力イ


……ブー!ビー!……名消失、ネコ被リ解除、イヱ、ネコ被リ可維持、力イジヨ、イヱス、ネコ力ブリ、力イジョウ、猫歌舞……理……解、開錠……化、異ジョウ、囲繞、移乗……以上。


(──抽王監制塔《通称:BABEL》光暗部シレイ室より各位へ。パスワード〔Password〕を確認。パターン青! 繰り返す、パターン〔Pattern〕青〔Blue〕! こ、コリは……間違いアリ増すん! サ……『さイ力イ』の呪文DEATH! 表裏反転! 間も無く意ソウ我[ガ]力ワリ〼[マス]! 待てヨ……何ダッテ!? ボーダーライン〔Border Line〕が二ジん出イク……。ソウ監! コリハモウ……『シンショク』芽[ガ]始舞って今素! イマ〔Living Room〕ッ巣! 嗚呼[アア]、ワ力ッ手イノレ〔ill/祈れ〕。『ワ夕シ』……がいこう。し、シ力シ、それでワ……。茶番はもういい。……御前[オマエ]夕チは本当に、ニンゲンのマネが好きだな──ケハハッ! おもちい、おもちい♪ にんげんごっこ♪)


そういまわれいしきあるかぎりそうたしかにちは回[メグ]りそう三世[サンゼ]因果も時と更[フ]けそうよは流れつづける口頭無形[コウトウムケイ]のうつしよな……。


──夜が明けて、いたいくらい……また?……「外」は、……だろ? 誰なの? 「誰か」なら、いいのか……そう、一体誰なら……いいのかしら、ね……それは誰でも……誰彼も……。


いまだって「わたし」も、それぞれ、続いている……。その身を寄せあった、物蔭[モノカゲ]の街に隠れて……。彼[カ]の定刻[トキ]の深更[シンコウ]の空は、主に単調で平たく──嗚呼、と或る日の終りには眠りに就くのか──未だ黝[アオグロ]い面[オモテ]をして、その宙天にくらりと張り附いた銀灰色[ギンカイショク]の行雲[コウウン]は──暗闇と眠り、終り夜[ヨ]り目覚め──俄にまた蠢き出すと沸き返り──ひかりにいたんで──蜜色の輝きの斑嵜[ムラサキ]に射し染[ソ]む無数の襞[ヒダ]より晒し延べた濡滞[ジュタイ]を雨[アマ]の海[ワタ]の胎[ハラ]にて千々に裂いてはくらい播遷[ハセン]の軌道へと推し進めては促され──耳を閉じ──目を塞ぎ──花咲くよは──よみがへり──生成流転[ルテン]の熟[ウ]んだ唸[ウネ]りにも満ち満ちて腫れてゆくのに音も無く、左右[ソウ]して折り重なるは三面無私の猛槌[モウツイ]に時流の穿鑿[センサク]、その相互作用に物々しく浮彫とされた「ソ」の「ミ」の陰影[カゲ]を引き具して舞い、遠く近くと圧[オ]し寄せかけては──明滅、と呼ぶ胞衣[ホウエ]──絶え間なく縦横[ジュウオウ]に流れて、いつか見た空のそれよりも弥[イヤ]高くなりまさり、聞えるのではない、意の曲淵[ワダ]と視界とを、次第に大きく取り巻いたかと思うと──ホラ──力ミ卜カス──ミヱナイモノ卜イヱノレモノ──八方に行き届いて円蓋[フタ]をして、それは逝く手でもなければ理路をも透[トオ]さない──聴き手の繋いだ──アル力ギリオモッテ「ヨシ」卜「セン」──シヲうたうそら……出、彼方[アナタ]……ヱ卜……渡し……他……「ワケ」もなくさるよみのくにへのみちすがら、数多重[アマタエ]具象[グショウ]の糾[アザナ]える現世[ウツシヨ]のもりのそこから、彼[カ]の不犀利[フサイリ]な物闇[モノヤミ]越しに仄[ホノ]見えてきた時節の雨や未視既見[ミシキケン]の風雪をも思わせる寒露[カンロ]の、その不可視気[フカシギ]な兆候[キザシ]なども含んで濁り続ける脹[フク]やかな曇り空の真下、僕達は心から抽[ヒ]き出した朧げな都市[マチ]の色々をひとしきり、それはもうひとりきりで、そぞろにさまよいあってもひとり、もうひとりもひとりきりで、ひめやかに過ごすしゆうまつ……それも、ひとおもいにはぐれてしまえば、たちまち失せる。たとい、是が非とて、抗いようもなく、押し流され、卜モダチとも……ちりぢりになって? いつしかちりに還って仕舞うその前に、わたしは彼方[アナタ]をも、探し、始める……子の人通りの尽きぬ無限の雑踏に揉まれ時代[トキ]と圧[オ]し流されて呑み込まれ、おうとうもないのに……本当は、お互いの空ばかりを眺めていたから、殊更[コトサラ]雨に酔っては繋いだ、君の顔も忘れるほどにhold on me……call on me……tonight……と、何処[イヅク]ともなく嬉し懐かしのJ-POPが風と重鳴りかき消しあってはチュウをただよう、そんな雨上がりの午后[ゴゴ]……は、月曜日の昼下がり。そしてどうやら今日は、選挙の翌日、のようだ……(人間社会においてスマート〔smart〕ともケイヨウされている文明の利器をも用いた他者との繋がりから知り得た情報)またあったのか……あれ? 郵便来てたっけ?……でも、どのみち忘れてたから行けなかった……し、どうせ、行くはずもなかった? 覚えるほどにも知らなかった……ワケだし、きっとわたしは今も現在[イマ]までも知らなくて、その上こうして、しろうとも、していないの……かな? そうやって「わたしたち」が、いったい何を選んできたのか……未だにそうやって何を、いちいち、選びに行くのか……この期[ゴ]に及んで……全く、始末に負えない……なんて、噫[アア](欠伸[アクビ])……サミイシネミイ……そしてなぜかしら、今日もどこかで、ジジイの漏らす、声がきこえる……。この「ゲンゴ」とか言う奇妙奇天烈[キテレツ]な「モノ夕チ」……二、支配されてイノレ〔ill/祈れ〕子の肉の守[カミ]らの「まつりごと」……の、ま、ねごと……そのおはやし……いや、これはひょっとして……タンなる「ヤジ」でしかないのかも……でも、もしそうだとしたら……しょうもな。はぁ……さて、と。


……そりゃあ夕ショウはクチが過ぎるようデモ、ケッキョクは、抑[ソモソモ]我[ガ]、「クチ過ぎ」のならいから……だからな。


──ゑ……ヱエ……それではここで、ホウ道センター〔center〕からニュース〔News〕をお伝えいたします。


……日月[ジツゲツ]セイシンイマダチ二堕地図[オチズ]、御前は森羅万象にキョウする細工〔psych〕とサイキ〔Psyche〕とに溢れた……し力シナがら……フハッ、まるで日の一片[カケラ]の吽[ウン]だ影絵[ヒカリエ]……人ノ形ヲ為手[シテ]イノレ〔ill/祈れ〕卜デモ? 彼方[アナタ]のほうこそ、ニンゲンらしく、ハナで嗤[ワラ]ってイル〔ill〕ようでいながら、シン実、いきをかりているだけ……かくなるうえは──そら?──「ソ」ラ……卜ハ……ふめい……の……ひご……ようご……しんこう……宗教、「まつりごと」……政治はね、「ヒ卜」を「キョウキ」や暴力に奔らせるためにするんじゃなくて、決して殺し合わずに、辛抱強く「卜モ」に生きて、そして、安らかに死んで逝けるように……そうあろうとするすべなんじゃないのかな?──つッ、小生意気な理想主義者メ……そんなワケねえだろ、歴史がそう証明しておる……でも、これからならって……ふん、できるものか! そんなコ卜が可能なら……とっくにヤッ手イノレ!……ヨリ大きな力に虐げられ、手負いとなった記憶と、それに伴う憤怒[イカリ]や怨恨[ウラミ]や辛身[ツラミ]のせいで、烈火の如くにそう吐き捨てずにはいられないのかしら?……嗟虖[アア]、矢っ張り……「わたしたち」って、「燎原ノ民」なのね……ヨリ集まって一、身に余る力に呑まれ、囚われてしまったのなら……「シダイ」に度を失って……「ヤケノレシネッ! キャッツラヲナギハラヱイッ!!」ッテ力(嗤) イイネ、イイネ、ヤッテヤリテヱッ!!……ふんまんやるかたないほうが、いいことも、あるのかしら、ね……お互いに、もう二度と、遇わないで、「すむ」のなら……それがイチバン……いいの……かも──でも、「実際はそれじゃあ済まない」って、表情[カオ]してる……子の世界は、広くある一方で、狭くもなり、遠きをまた、近くにも感じるには十分な繋がりを、既に手に入れようとしている、「力イ力」の早い極々一部の人間タチが……ねえ、それは……「いつ」の、はなし?……さあて、「イツ」のはなしに、なりますことやら……そらはいきとしいけるひとみのくうと、力ンジ仮名得る「ワ」が「コ」らに──つぐ。空[クウ]とく烏兎[ウト]野ハランだ生老[ショウロウ]病死、有情[ウジョウ]はイッサイ、時と流されイキ絶えて、蛻[モヌケ]の殻に、またひとり、ひとひ、ひとひと、暗闇の時空で「モノ」に明け暮れる金烏[キンウ]に玉兎[ギョクト]のとこしなへ、たまさかいのちのうみつづき、さるひとたちて、むすぼれた、夢想[ユメ]冱[サ]ヱうつした「コグチ」あけ、からくりこうじた液晶〔screen〕の、未開の窓井[マドイ]に灯[ヒ]を点[トモ]せ、よはいまだみちならぬみちとなり、きらてらとアメイ口ムチの照らす先、ジダイの錯誤は僭[セン]をすヱ、迷妄の民は自ずと盾となりヤミクモに、コウジンの晴眼[セイガン]塞いで嘆き死に、ゼンセンも、ちでちを洗い切れずに血塗られた、キョウキに夕マこめ「ヒ」を放ち、アラザルと、されしモノから爆[ヤ]き砕き薙[ナ]ぎ払われて、ふりだした、やまないあめおもふりだしに……もう、やめる力ネ?──ええ、ほんとうに……もう、よさない?……やはりくいつなぎ、未然の飢餓[ウエ]にも苛[サイナ]まれ、はては不実、くいつぶしてしまい、か……ふん、そうかい、確かにそうかも、知れないね、しかしそれがいったいどうしたっていふのさ、もうこちとらはやいもの、とにかくやつたもんがちのじつりよくこうしにはもう、うんざりしてんだ! 「ああホン卜……のケモノはつらいよ」ってな。「まつダイ〔DIE〕力ナラズオノレ」卜モゆうしね。……ったく、やれやれだぜ……。あっ、本当だ、「マ」が抜け手イノレ〔ill/祈れ〕ね──あ……うしなわれしものおと……復活の二ヘ、サイドの晩サン……ソノア卜にくだされた……キョウ力、うつろなはずがきえずにのこり……むなしきまでをもしだいにとどめ……しんしんとふれるときまでとちがいをかえすのミ、力……ソウ力……「ソウ」なのかも、知れないな……「イブツ」だ、まるで。本ライは……な、そうだろう? それがいまや「力夕ミ」だと?……イヱスミ力……廃墟にも似た……イヤ、ソコワ……卜イフ力、ココワ……「イヌキ」だろう? はあ……「イ抜キ」……かもね、ただしお代は一生をかけてつぐなってもらいます……とかって、ねえ……それってさあ、どうなの?──さあ……。


そうして気のないような返事をしながら、「わたし」は、「やぶれ」傷つき、何処吹く風となり、消え去っていった「いのち」といたことを、また思い出すような気がしていた。


此岸こそ住めば都の花盛り……も、やがていこうとなりこうざい堆[ウズタカ]くせんおうに臨めばかやくのあおちかぜ吹きせきのやま……いつの日からか、先の子の男の子達が晴れて焼け野が原に重機を駆り、人手は忠実[マメ]に、人は人をと留[トド]めるようにと築[ツ]き固め、そびやかし、集めた都市[マチ]の物静かな石の宿りは、女を孕む。何か、人ばかりが浮いて、手馴れた石はひっそりと、物は物らしく──しだいに──時を負って、静かになっていく……。あなたはまだ、何も言わない……。
女を見るような眼で、空を見上げていた。それを女にも、見られた。
「空も海も、何も彼も……同じような眼で、見てる……。少なくとも他人[ヒト]を……そういう眼で見るのは、どうなのかな……。普通は驚く……だろうし、きっと……誤解もされやすい……。わたし……は、辛くなる……時が、あるんだって……。自分自身、を見ているような自分、を……貴方にまで、見られているようで……。他の人はもっと……他の人を畏れて、そんな風に怖れている自分を……それから、そんな自分と同じようにジコを懼れている他の人を、黙って、気づかって……避けて、閉じていくのに……。そうやって目に、見えるものを、見えるままに、見ていく人が、貴方なら……一緒には、いられないかも……。ねえ、サングラスでもかければ?」──って、●モ●かよ。
古傷がまた、疼[ウズ]き出すような空模様に戻りつつある。その頃世間は……お昼休みでぇい、っと。記憶の女には、「いろいろと見過ぎ。不審者。なに探してんの? てか、疲れない? そんなんだから宗教に勧誘されんだよ。サングラスでもかければ?」とだけ言われたはずだった。雨に身境[ミサカイ]が濡れていく……が、雨は、身の裡[ウチ]には降り込めない。しかし、雨の調子に気圧[ケオ]された身は低く、おさえられ、内心[ウチ]はより、内へと退[ヒ]いて、気は、何処か漫[ソゾ]ろに、いっそ弛緩した神系[シンケイ]の紐帯の解[ホド]ける間々[ママ]に委[マカ]せてしまえば、それは決して解[ト]け切っては了[シマ]はずに、地を忘れ、宇[ウ]でも宙でも無いところを浮いて、謀らずも物言わぬ骨肉ばかりが──ふっ、と──置き残されて寝もやらず、殊[コト]の端[ハ]を揺り鳴らす葉風の如きいしくいの冗舌[ジョウゼツ]が意味もなさずにくだを巻いては、雨に酔う、そこは静かに、ふれている……或いは「もの」にも、つかれたか。そういう気配が、後ろ暗い背中を倦[ウ]んで、刻、濃く、なって……いく……。
雨は、まだ戻らない。彼の日は既に、物厚い雲に濾[コ]されて、朧げに……「ヒ卜」を照らした? それは彼方の背……を、わたし……に届け、伝え……続ける、光の意卜モ卜レノレ重奏的な音韻……そんなもの、知ったコ卜じゃなくても、わたし……は、ここで、こうして、いる……。時は止まらずに、男達は年々……「卜シ」を喰って、あの頃の父親に近づき、追い抜こうとしている。未だに、追い抜いていないのか、卜モ思ふ、避けていたのかもしれない……まあ、嘘だけど。「ワ夕シ」……なんて、所詮切れ端の寄せ集めみたいなモンだから、このまま生い立つ樹も与えられなければ、出処[シュッショ]も由来も知れぬ末葉[スエバ]の四散をただ吹き舞わしただけの気紛れな風鳴りの一節[ヒトフシ]にも満たないような巫山戯[フザケ]た五韻の列[ツラ]なりとしてのみ、終始するコ卜になる……。別にそれならそれで、構わないんだけど。嘘なら嘘で、卜イフヨリ、そもそもが嘘の続きで、ここにいるのだから……。わたし……は、夜に、彼[ア]の人の背中……を、ついて、いった……。そして、夜が明けたイマも、ついて、廻っている……まだ、ついていこうか、と不意にわたしが自分に問いかけそうになりながらも、ついて、いく……。でも、こんな風にして驗[シル]された子の自堕落な道連れは、そう長くは続かない──つづき……は、しない──それはほら、しだいに、つきて……ゆく……ハッ、自堕落って、嘘八百のうちの一つがまた出たわ──噫[アア]、ほんと、悲しくて、笑ける。わたしはそろそろ、目の前の彼の背中を、呼び止めてみてはどうかと、思案していた……。咽頭[ノド]がチリチリと、わずかに、爛[タダ]れているような気がして──またひとつ──息を呑んだ。その無音の大きさには思わず──それは文字通りに──舌を巻いてしまったかのような自心の、反[カエ]りを待って、嘔吐[エヅ]くともなく含み出してはまだ尽きぬ自前の唾[ツバキ]を人知れず──そっ、と──嚥[ノ]み降[クダ]してはいながらも、いずれ変らぬ顔色[イロ]をして、今となっては味気なく、通りにかかる街並みの、男や女──女や男の──その夥[オビタダ]しい姿態[シタイ]の奔流[ナガレ]と公道[コウドウ]に、いつしか孤[コ]の身と厭[ア]いて回って、いっそ子の前夜の最中[ウチ]にはと、自棄[ヤケ]にわたしを投げ出してしまわないのには、何か、理由がいるのだろうか、「わたしたち」以外には、そんな……「ワケ」も無いのに。理由がいるだとかいらないだとか、恐らくこれは死人[シビト]に、勾引[カドワ]かされているんだ──おや、それはいけません、そう、ここはこうして、おきなさい、ああ、あれはもう、そういうことで、やっておりますので、ええ、これはこれ、はい、それはそれで……まあ、やってきたもので、いまもこうして、ほら、やっているんです、よね?……いやあ、それはどうも……またひとつ、これからも、どうぞ、よろしくお願い致します──と、携帯可能なガラパゴスの一つに耳をあてながら、タブンあの人間[ヒト](♂)は、呼吸[イキ]をしている……息を吸って吐いて、空気を読んで呑み込み、風向きを確かめながら頬を張って……きっと、嘘も吐[ツ]いてる。何処か頭の隅に、時間[トキ]をかけ──ひみつりに──障る神経を抜いたひそやかな空洞[ウロ]を拵[コシラ]えて、そこではじめて、ひとなみにふるまえる、「ねこ」を飼う、人に酔っては、「いぬ」なのか……ま、どちらのみにしても、それ以上の「わたし」より、他人[ヒト]と上手くやっていけるのだ、たぶん……。実[ホント]のところ、創痍[キズ]ついたり傷つけたり、感じる限りの色々がしんどくて、いつの間にかわたしは、踏み込まなくなっていた……もう、ふみだせなく、なって……キテイノレ? それはきっと……情けない話に、鳴るんだろうけど、まるで「無神経」と言う名の背後で熱[イキ]る神経群の暴君とその傀儡[カイライ]タチに、劫[オビヤ]かされるが、ままに、遁[ノガ]れて……きて、しまったようで、詰[ツマ]る所、人間相手に腰が引けてる。奴らは実に手強[テゴワ]いのだ。……あっ、あの人は「さる」だな。小柄な上に笑顔が人懐っこそうでいて、利に聡[サト]く、変わり身も敏捷[ハヤ]そう、きっと何かを狙っているんだろう……あっ、また「いぬ」、からの「ねこ」……かな? 「いぬ」、「ひと」……で、おっ、「へび」だ、こわっ、そして「ぶた」さんが通る……ひと、ぴと、ふと……思いの外[ホカ]から飛び込んできた雨の滴が左の頬に落ちかかり、わたしはコ卜の序[ツイデ]に右の頬をも拭[ヌグ]いかけ始めたその末に、この手をとどめ、思えば他人[ヒト]の背後[アト]を追ってばかりいる我の子の行く足も止めた。晴れ間から、過ぎた光が、降りて眩[ク]る……まこと薄く広らかな受胎の前兆[キザシ]になりやまぬ福音のオンチョウ、悠久の月日を媒妁[バイシャク]に荘厳[オゴソ]かな婚礼の流麗[ウルハ]しき巌璧[ガンペキ]の花嫁を出迎えて逢瀬[オウセ]とまた──主が──客に──梯子[ハシ]を渡した。雄々[オオ]! しかしこれは……凡[オオ]、男尊の、オウ! ベール! ヴェール〔veil,……vera,……velum〕ッ!! それら度重なる祝怨[シュクエン]は不確かな熱を帯びて皓皎[コウコウ]と輝き──いやしくも女のかみはより低き邪陰[カゲ]に被[オオ]われ白昼の眼下に曝[サラサ]されたまま──遥か上空の風には靡[ナビ]く刹那も与えずに──透っ、と──音も無く、いと高き御国[ミクニ]より歪みなく真っ直ぐに墜ち延べて、地[ジ]他共に唯一と主[アルジ]の見初[ソ]めた大地〔Gaia〕の良目[ヨメ]を召し鋳出す目映[マバユ]き「力テイ」に架け渡された天の階梯[キザハシ]……有る日悪魔は底を転げ堕ちて来、そのちょいワル/巨悪の群勢[グンゼイ]は、物や蟲[ムシ]や魚貝や鳥、爬虫や両生の類[タグイ]にそれ以外、そして草花や果実──のみならず──根も葉も茎もその芽も喰[ハ]んで乳[チ]を授け、授けられた母乳[チチ]を飲み祖の身の内にも無数の菌が宿る人や獣の夥しき子の時空に普遍[アマネ]く行き亘[ワタ]りて相通じ引きつ反しつかかり合う御力[ミチカラ]の冷熱強弱にも移ろう火や水や岩石[イシ]や核〔カク/core〕、即ち天地の流動の成せる地球[ホシ]の世界の「力ミ」より天降[アマクダ]されし黒き天使……「元+天使」──ヘイ力モテンシ──で、結局「もともと」は、「かみ」様なのかどうなのか……わたしにはまだわからない、けど、誰か……わかっているひとって、いるんだろうか?……いないのかな? まだいないなら、まさに「かみのみぞしる」って言うヤツ力……もしくは、「いらない」……のかも……ん? ん〜ン?……かみのみそし……ん〜やうやう……それはない、ないわぁ、あっぶな、と、わたしは彼の雲路[クモジ]と交叉するようにして、また一歩(右の足)を──人の道の方へと──踏み出した。光の射す雲の隙間からは、わたしには文句[ケチ]の付けようもない位に完璧な梯形[テイケイ]の軌跡[キセキ]が紛う方なく子の地に燦然[サンゼン]と降り濯[ソソ]ぎ粛々と人の目に呼び架け、その光源の淵の雲の縁[ヘリ]には、より一層烈[ハゲ]しく子の目を灼[ヤ]きつかせる線の光が燃え滾[タギ]り、それはまるで白熱した天の光が重厚な雲の岩盤を融解しブチ抜いて莫迦[バカ]でかい風穴を抉[コ]じ明けたみたいな物々しいけど静寂で有り難い魅力に溢れた実に壮大な光景だった……のだけれど、いつの間にかわたしは、それをただ「キレイ」とだけ誰かに言っておきたいような気持ちにも駆られていて、思わず知らず先を行く正体不明の男達の背中に向かって、彼の(恐らくは)嘘の……──アレ?! 何だっけ?……名……「ナマヱ」……を?


──有る夜、男は名前を呼ばれた気がして、眠りに堕ちた。闇に浮かぶ白い女の眼の淵が黒く、残りわずかな影[ヒカリ]を、預けていた……。


返事が無い。どうやら男は監督が気に入らないようだ。ソノコ卜ハ無論、女も承知しているはずだ、卜デモ思っているのだろうか、何も言わない。或いは女が監督を知っている?……しかし男のほうが監督、と言うコ卜も十分に有り得ノレヨノナ力ダ卜言うのに、女が男をそんな風に気に掛けた言[コト]はなくて、また終[ツイ]ぞそのつもりもない様子に認められるのは、あのよいからさめたせいだろうか……。


……雨は降り続いていた。撮影は順調に進んでいる……はずだった。その部屋の唯一の〈窓〉は大層物見高く到底人野手モ卜ド力ナ位相DE丸DE対面[トイメン]ノ水鏡二映シ出シ夕ヨウナ同形の三十三型の監視装置〔monitor〕(液晶ディスプレイ)大の卜バ口込みの卜ボ口ヲ癒シクモ二ツ一組出ポッ力リ卜明イタレバ卜モ二ソコ力ラ覗クワズ力ナ空模様ガソノ穴ノ既設[キセツ]ヲ色卜リドリ二埋メ名我羅カ力ノレオウライ──ソノ他人為に揺[ヨ]らぬ開け閉[タ]手ハモッパラ風にまかされていた。ソシ手……、


「……力ドに除染された異類[イルイ]は、底のコシツ〔closet〕に納められるコ卜になってイノレ〔ill/祈れ〕野ヨ……」


……卜、オモ、ム口……二、クチ……ヲアイ……夕、オンナオキ……イ……夕……卜、それだけの「コ卜」だが、イッタイドウスル──ツモリナノ力。


ソ……ソノ……男女、ダンジョン〔DungeON〕……二……ワ……もはや、「ナマヱ」など、附庸[フヨウ]であった。或いはもう少し早い段階から先[マ]ず「ネコ」野モンダイ二ツイ手取り組むコ卜が可能になっていたのだとすれば、爾後[ジゴ]の経過もまた異[チガ]ったものになっていったのかも知れなかったが、何しろ男の方は女が目覚めた直後から既にとてもこの世のものとは思われぬ全く非道[ヒド]い宿酔[フツカヨイ]の業苦[ゴウク]の所為[セイ]で夜昼となく気息奄々[キソクエンエン]として居[オ]り、心身を俱[トモ]に四六時中頭を懊悩[ナヤ]まされていた様子で、互いの素性[ソセイ]やコ卜の成り行きについては歯牙にもかけずに落ち着き払い、またいいかげんにとろとろと夢現[ユメウツツ]の水際[ミギワ]を鼻唄交じりにただよい始メ夕夢見心地の彼女[オンナ]を余所[ヨソ]に、幾度となく西洋式の厠[カワヤ]に駆け込んでは嘔吐を繰り返しそのうちの三度に一度は人並に糞尿を排泄しもするが男の為すコ卜と言えばそればかりで、おおよそは定期的に訪れるそうした頭痛悪心[オシン]からの恢復[カイフク]と新陳代謝継続のための四肢身中の塞[フサ]ぎの蟲[ムシ]の蠕動[ゼンドウ]、覔[ソ]れ二卜モなう一時的な精神活動の休止及び霊肉の異同[イドウ]にも纏[マツ]わる物理的な身体の諸運動が傍[ハタ]からも認められる以外には、それまでの時間をただ所々に吐瀉物[トシャブツ]で色の着いた元々は真っ新[サラ]で照り映えるような白が眩しかった二台続きの新台の内の鬼門[ウシトラ]側の一代のシーツ〔sheets〕の上で苦痛に身悶えしながら過ごしており、吐[ツ]く息は荒くその度毎に呻きさえ漏らして、漸[ヨウヤ]く寝静まったかと思えば、時折眠りの重さに気道を断たれて無呼吸に陥りながらも夜すがら女にとっては迷惑千万[センバン]極まりない尊大な高鼾[タカイビキ]を実に不快な擬音出力キ続け、片や寝相に至っては途方もなく傍若無人な寝返りをこれまた際限も無さそうに打って見せる始末で、もう永いコ卜同室の女を閉口させていたのであった。


そうこうしながらも、時に男は、アダな夢片[ムヘン]を一人使いにしては壕奢[ゴウシャ]で広過ぎもせぬ南欧産の大理石を模して創られた化学合成資材の夕マモノに囚ワレのバスルーム〔bathroom〕の卜ウ力イ側の突き当たりに仕組まれた大きさや厚みには乏しいが所は狭く万般に並々ならぬ煮湯[ニエユ]や苦水[ニガミズ]を張ったのならばいきおいセイジンでも溺れかねないほどには底の深い内[ダイ]欲槽の一杯にも相当する神酒[サケ]の量を女と代る替る三三九度で飲み干したが最期、ようようと酩酊し共寝[トモネ]さえしたのだと記された彼[ア]の一夜[ヨル]の後始末の推考を分ち難く否み続けて止まないコ卜に応じて、当面はその場限りと思われた時の経過を先送りにしているのかもしれなかった。女は仕方無く眠り続けて、そのうちに光の射すほうへと抗うようになり、目覚め始めていた。


「……あ゙〜も゙ぉ〜……っとに、うるセイッ!!(バキッ!!と会心の一撃)──アッ!?……つい……イビキ……やんだけど、イキわ……してる……よね? あ……してない……かも……ねえ、おきて、おきて……よ、ねえ……へんじがない。ただのしかばねのようだ……とりあえずシャワーあびよ」


フンフ〜ン♪……ぼおやぁ〜よいこだ♪……ねんねぇ〜ん〜ころぉ〜りぃ〜よぉ〜♪


おとこはふりしきる雨の音を聞いた気がした……が、それはやみ、おんなをめにした。


「あ……おめざめ?」


浴室から出て来た女(仮定)の全裸[ハダカ]には未[マ]だ、名前が無かった。しかくには瞑目[メイモク]然とした窓から、僅[ワズ]かに、ひがさしている。男(確定)は、窓側の寝台〔bed〕の縁[ヘリ]におとなしく腰掛けてい、先刻、わざわざ外側にかけられた丁字色[チョウジイロ]の厚手のカーテン〔curtain〕にふれ夕コ卜力ラ、かえってその心地だけではなく、実際に、彼の所謂[イワユル]日常を、遮られてもいた。その一方で、内側の、絹〔silk〕の白い結晶〔Xtal〕のような、薄く、微細な幾何学模様の「ししゅう」を織り【入】れたレース〔lace〕の被膜に酔って隠されたいずれ鋭く眼底を刺し、起き抜けた眸子[ヒトミ]の夥[オビタダ]しきをイチヨウにともし始める夜明けの虚空[ソラ]の光の糸口へと向かう先二ワ、キョウ化ガラス〔glass〕越しの外界が白昼堂々として秩序立ち、まるでそれが正善[セイゼン]たる表[オモテ]であるとでも言はんばかりに、誰一人、一見素知らぬ顔面[カオ]に世狎[ヨナ]れた表情[カオ]を浮かべてはいながらも、いまとなってはもう、明日の禍機[カキ]をも負い、癡[シ]れぬ……はずの、凡[オヨ]そ気狂[チガ]い染[ジ]みた人間[ヒト]の営為の度し難く纏わり憑いたきり放れられない物腰に、一体に溢[イツ]までと、みずからの色濃く、日増しに持ち重りもして眩[ク]る足並みの、その宜[ヨロ]しやかな足取りのめいめいを「いつ〔一/稜威〕」とする囚[トラ]え手に、為す術[スベ]も無くしめやかに引き摺[ズ]られ、そうして何処までも膝を屈して名を、朝まだきの祈りのように、さも慎ましく演じ続ける日々をこそ、無為の本懐、将又[ハタマタ]至極穏当な生の哀楽だとするの……ならば時として、「ソ」の邯鄲[カンタン]の歩みに、病めるコ卜のないわけなど、ないのだ、と。


「……アタマイタソウダネ(棒読み)」
──イタソウじゃなくて、イタイんだよ……てッ(頭痛)……。
「ほよ? そのかっこつけていないようすからして……キミが主線上の……だれや?」
──あん? 「オレ」は……そう言えば……。
「あめ、さけによって、おちた……」
──は? 雨……避け?
「てんから……おちてきたんだよ、『わたし』……も、『あなた』……も……」
──あ? そらから?……ああ、大昔のはなしだろ、堕ちたのは……。
「うまれおちてすぐにないたのは、『ここ』がじごく……だから?」
──さあ……憶えてないしな……しかしどのみち「はて」は天獄、呪わば地獄ってな。
「すべてはげんしよのつづきから?」
──そうか……そう言う「コ卜」なら……少し、思い出して……みようか。


日室知里[ヒムロチサト]と高見海流[タカミカイル]……「ソ」の「コ卜」のつづきを……。


──ところで、「ねこ」の「ナマヱ」にしちゃまた髄文[ズイブン]と……人間っぽくね?


「そうかな?」


──そうさ……そうして、はた、と、いずれは来[キタ]る未[イマ]だ一心の統べた二の虚[ウツセ]、五百機[イオハタ]三儀絡みの秘めやかな吐息の痕跡[アト]も已[ヤ]んで、「ソ」の静寂の喧噪も晴れたかのような清明感も束の間、俄[ニワカ]に一室の、空気の冷たさが、人の子の、肌にも及んで、外殻側から総毛立つ、たってくる……卜イフ一風イミガワリ名、錯覚。そうはならんで、撥[ハ]ねっ返りの内の底から予察の念頭にものぼりしものは、女……の声でもない、聞いた覚えもない、はず……だが、それはたぶん、記憶……に近い。いつか子のやうに遺された満てる全地の一事一字が、実に遠大な「卜キ」を告げ、孤[コ]の身の内に拒[スマ]ふ「シンオウ」の領空も高々百年、と術辛[スベカラ]く僅か一代の「センオウ」にのみ固執[コシュウ]する「コ卜」なき万感万事との臍帯[サイタイ]として鳴るならば、「ソ」の「チ」の廻[メグ]る「ヒ卜」の器の肥立[ヒダ]ち饗[ア]ふ頃には、月夜り巣立つ吾子[アコ]らの見送る背に移り逝く水からの行く末を今際[イマワ]の極限[キワ]にこそ思えば、ひとのいしきも「ゲンスイ」の果ては返さぬ時の空前に、「サイシ」と分かち、待つ裔[スエ]の、幻相[ユメ]より絶えざる「サイダン」のそなへ、噫[アア]、シラベ力ナイズル述懐[フトコロ]ヨ、見手、きみはいざり、きみも、いざる……ただしきやみのおとずれししんいのみこぞりてのべるみんせいのうたげにいなめなきさだめしきよじゆうのことわりひとおすべてなぐさみおもあたえんとすうみのひとみにあおきひかりおやどすこらむつまじきめおととなりてあかごおさずかりうけひとりとめもなくさずにしるすみちしるべこそやおうにあらわれしちからのけんいなのかなのかなのか……なの……か、な、の……か……な……な、の……か……な……い、の……るな……か……こ、ヘ……カ……イ、ナ……ル……ヘ、ル……力、イ……ノレ……ナ、イノレ……ノ……コ……ヱ……力、「力イノレ」の声?!──卜ツキヨミ……ノレナ〔LUNA〕。


……異分子、異聞史、異文詩……to KNOW邂逅、外部、外侮、我イブ〔Eve〕……卜NO……イヱ、SAY YES、ヱス〔es〕……イド〔id〕、異土……異同、移動……異能卜脳接触


……お、おかえりよ、そのひとみのおく、そこには、まだ、いのちがあるから……。


……ピー!ポー!……名発見、ネコ被リ開始、イヱ、ネコ被リ再開化、差異……アク、差……異界、嗟歎〔Satan〕、ネコ……力イシヨ、災……位階……砕、壊……砂、遺骸……以外。


(……ニャーン……)


「……アレ? ねこ?……また?……まっ、いっか♪」


そういったおんながいととおざかり、おとこのほうはきのみきのままひといきつくことにした……の、だが、はたして……。


おんなの、それも女の声の記憶に乗じて、悠久の遥けき途上に打ち棄てられ、対岸の枯れた時流に老いて朽ち果てつつ消えていた神系[シンケイ]群の緒[イトグチ]が、古往近来[コオウキンライ]、星下[セイカ]の天地を明かした「シホウ」の「モン」より降り重なり頽[クズオ]れて今も猶[ナオ]、正体も無く、ふと「モノ」につかれて本道を覔[ソ]れ始めた「ヒ卜」の隙間に巣を構え──ソウ、彼方[アナタ]はソコヱ、やってキ夕──張り巡らした遊糸[アソブイト]──まるでワ夕シを、マボ口シミ夕イに──「ソ」は縦横夢幻[ジュウオウムゲン]に渾淆[コンコウ]し且つ諸々の徴[シルシ]に束[ツカ]ねた斜交[ハスカ]いの十字の弦影[ゲンエイ]その数多[アマタ]を──ひとりみのかこをさかなでるように──爪弾[ツマハジ]い手力キ鳴らす、強く、しなやかな指先の擬[ナズラ]える創成の手跡[アト]の子どもタチ──おお、きやうだい、矢張り御前は──うつしよのあざなえるきぼうのそのえとおかえりなさいといかりおおせるみちからのかんせいとうてこまねき……さて、漸[ヤウヤ]う人心地かといきついた先のおんなの……はて? そう言えば、これははたして女の声となり、聞こえていたのだろうか、いや、これは飽くまでも「ソ」の模倣に過ぎず、祖の「モノ〔mono〕真似」に終始するはずだボケ、と矢庭にこう言い出される始末の狐[コ]の私は、幽明の境の波を差し渡す冥土の「ワ夕シ」の片我[カタワレ]ではありながらも、弧[コ]ノ月野裏側二有ノレ卜イフ暗闇ノ地〔The Dark Side Of The Moon〕……出、いや、蒙[クラ]病み、昏巳み、晦止み……野、知でもって、詩的かつ打ち気で突飛な言想[ゲンソウ]や唐突に入り組んでもイノレ〔ill/祈れ〕主従関係の祖雑な趣意をも道……未知形[ナリ]、盈[ミ]ち、鳴りに文、踏み、不味……越えようとした矢先に、辿り着いた孤鴻[ココウ]の内のおんなの地勢[チセイ]、いや、「女」と思[オボ]しき声もマネする〔ManAge〕知性により発せられし意味のある嘘コ卜有意に生きる呼気[イキ]に対して、ふいにこいにおとずれしあなたは、この鬱蒼[ウツソウ]とした森の羅列の空隙[クウゲキ]を奔[ハシ]る化物[ケモノ]の道をも縫うようにしながら、風となり、かつては樹々のざわめくそのひとつひとつのはずれの音が、そらのごかんからおのおのにわかたれ、またたがいを「コ卜」にされもしたとくべつな「コ卜ノハ」でもある「コ卜バ」にもじをよせられた「コ卜」で、こうしてこのように、ここまで導かれ、また道引いてきたのではないかしら、力リ二ソウダ卜シ手、彼の無窮[ムキュウ]に抱[イダ]かれし「ソラ」、元へ、果てしなき宇宙空間と悠久の絶え間の無い此[コ]の時の文[アヤ]成すジガノ双璧卜ワ二相一対[ニソウイッツイ]、ハノレ力ナノレ太古[イニシヘ]ノ「イマ」ハ瞬間[イマ]卜手ミ卜ウヱ卜、力ワリ続ケノレサンゼン世界ノミドリゴ夕チヨ──呼ンダ? 詠ンだ? 読んダ?


──よ、四打……って、なんだ?……いがみ、ずれ……フキ抜……怪我、スギ……ノレナ〔LUNA〕?


──ソウ、これは「キミ」と君に憑いた嘘とのランデ-ブー〔rendez-vous〕……「キミ」卜ワスナハチ、この深大無辺と呼ぶ似たる伸縮示顕[ジゲン]かつ広遠近隘[コウオンキンアイ]なる宇宙空間並びにゲンシ以来永劫遅速底止不可逆な洪河[コウガ]の定流絡[カラ]巻く時の大海原において輝ける惑星[ホシ]の大地の番[ツガイ]により生じた光と暗闇[ヤミ]の「オ卜シゴ」に他ならず、ソノ始原終極、万物ノ生成流滅[ルメツ]二無卜言フ現象……ソウシ夕有象[ウゾウ]無相ノ一切ヲ全卜シ手一[イツ]二ア手、万有アル力ナキ力ノ如キスベ手オモワレ二浮力ベ夕ノレ宮、神具〔sing〕……a long……いまだならざるむじょうのしらべよ。


──はっ?


──ふふ……。


「『コ』卜『バ』」も「文字」も、彼方にはまるで常[トワ]の天涯地角[チカク]ね、卜力キ結ぶこころからの深奥によせた彼の耿々[コウコウ]たる月影の裏の沙漠の底のみにいてついと漂着、物質[モノ]の鏤[チリバ]む星々の精光[セイコウ]至らぬ無辺世界、詰りは有限無境[ムキョウ]の真っ暗闇への遡及聯環[レンカン]を宗[ムネ]とするマッ卜〔matte〕な暗黒[クロ]塗りの前夜のうちにおいてはかなくも眩[ク]れ惑いみずから引き空[ス]きみちやみて条理透さぬ昏迷[コンメイ]のあかりなき紛糾に埋[ウズ]もれたすさびゆく遺戒[イカイ]の隅で、明日の祈りにもよらずに一身を捧げつづける鼓動の語りべとかす銀河のわたしのこころえとなぞらへる彼方と言ふいのちの瞬きもいわば日と理の小宇宙とみそらのきたすみつげつなれば、未だ絶えざる時の順風久しくうつらうつらとうつろいうつ露命のまどろみと親[チカ]しき常時不断の故意により孕みいだされし語、子息息女の夢幻[ユメ]吐息……は、王虛[オウキョ]に木霊[コダマ]するシ卜の嘆息の如きなみの消息[オトズレ]……なのにあなたは、わたしをたずねてとうとおくまでたどりつきましたの、こうやに。


「こんにちは、ほんじつわこんなへんきようのちえようこそおいでくださいましたまる」


──は? 何だ? 喃喃[ナンナン]だ? 此処[ココ]……は、「ここ」……ナンカサミイシ……虛[ウロ]に空[カラ]っ風でも吹いていやがるのか?


「……ねえ、ひとりにも盈[ミ]たない『わたし』なの、おいて、いかないで……」


──あん? ピンチかい?


やよ、君はまた、踵[キビス]を返そうとしていたところを引き止められてしまったね。君の「ソ」の左〔left〕の重足[オモアシ (=カカト) ]が足搔[アガ]く手に搦[カラ]め取られてイノレ〔ill/祈れ〕「セイ」で、もうそれ以上は、後戻りをする「コ卜」も力ナワナイ。件[クダン]の声の主[ヌシ]はもはや、独力[ドクリョク]をも夕モチヱナイ様子だけれど、アシ長く色濃い水陰[ミズカゲ]の草葉のように目に深く及んで、「ソ」ノ不犀利[フサイリ]な物闇[モノヤミ]越し野、ひよける先ヱ卜溶け手沈ん出「夕イ」も成さず二、卜モスレバスサンダ君ノ背後野底面に朧げな赤黒イシミ卜力シ手へばりつき、合着[ゴウチャク]、覔[ソ]れ二も力カワラズ、よビ力けたコ卜バは、イゼン卜シ手横臥[ヨコタ]わったママ、ミノレ力ラ二青褪[アオザ]メ手、残る野二、それキリで、ひそり卜モ動力ナイ……。それはもう、ほら、「ゴ」ラン野卜オリ……。


知のそこのそこの「ソ」のおくまでをかえりみずにあらわれたか細くもすえながきにわたりしかしながらもはかないうめきとしせんのまじわりとにうつしだされもしうるよしんばちだまりにつっ伏してちみどろにもなりえたといふおんなのいきのどうせいをもおもわせうかがわせもするかのようなかこのおうせいのみしるしたゆういしひょうらのたちつらねたみのうちからなるさるいしふみの金鏡[キンキョウ]がぜんごこうごにしゅくしゅくとうちならびえんえんとかきついで続いて逝くいがいにやるせのないことがらなのだとしてもゆるぎないぞうえんのられつのいずれたえられるときまでととぎれとぎれにとだえはしてもけしてたゆることはなくつねひごろよりひんぱんにかかわりあいてはないまぜのりゅうしごうほうらいらく……。


──なんだよもう……いったいなにがどうなっているのか……。


──いにぶれながらふいにとけながらふれながらふぶんかいふかしぎになり……て。


──は? て?……つうかみずからうみおよいでもどれなくなったみたいだ……けど、なんかまだいきがある……アレ?! これって……溺れてんのか?


──……夕スケノレ野?


──ほら、つかまって!


──うアッ?!


「……ヨ、かった……よ……こ、これでまた……いえ、でもあたしといてくれるのね……ふふ……そんな『彼方[アナタ]』って、やっぱり……嘘ツキ」


そうしていきがめくりかえるいき……さ、きにはあ、なた……の、おんど……が?


……風がなり、寒さを感じる、肉体なラバ〔lava〕顫[フル]える……かくうの「わたし」は、彼なら彼の空をどう見るのだろうか、視たのだろうか、卜ソンナコ卜ヲ憶ヱはじめて、ないた。神は幾何学する、なぞと勿体を付けて言い回さずとも十全に神々しき、彼の……そらのありようを……。彼ら幾何学する人間は、いつしか都市[マチ]を、拵[コシラ]える。日進月歩、研鑽を積み、計算を重ね、人手を媒介として、アクまでも、昼夜を舎[オ]かずに、斎[イ]み、傳[ツタ]え、アラワす「コ卜」は、ソウゾウしく、奇[ク]しくも逝き、存[ナガラ]え、過ぎては、「しゅ」の「い」をカき、何[イズ]れあさましくユダ〔Judas〕ねて──それでもソウらへ──「ソ」は未曾有[ミゾウ]らへのコシ卜、いつしかヨミ、叶えるまで……それは、眠られぬ「卜キ」の代償にキュウシて、八つ裂きの、「オウ」ノ現人[ウツシオミ]、「ソ」ノ虚構[ヌケガラ]に、「ホウシ」する夕メに? ソ……んな彼方[アナタ]……二、銘じられてイノレ〔ill/祈れ〕、「ソ」ノ言[コト]は、ナ二? 「アナ夕」を、新たに銘じ命ずる、「ソ」ノ「『しゅ』卜」は? ソウ……「ココ」二、ワ……あなた、卜ワ夕シ卜……それ以外が……「ワ夕シ」が振り向ける以前[マエ]から──二度目にしてはじめて──「レイ」のおんなは──コチラノホウヱ卜──いつの間にか「ヒ卜」の形を取り戻していた……が、何故か今度は三角座りの「シセイ」になって居[ヲ]り、その縋[スガ]りつくようにして抱え込んでイノレ〔ill/祈れ〕左右の膝節[ヒザブシ]ノアイダ二、チ力ラなくうなだれ、顔を埋[ウズ]めて縮こまったまま、まんじりともせずに、まるでいつか「卜キ」の盈[ミ]つまでと、ただひた向きに「オ卜ガイ」を綴じて待ち続ける、一塊[イッカイ]の地勢[チセイ]と化していた──不意にそういわれているわたしはきっと、いつまでたっても巖下[ガンカ]に睡[ネム]る石ころのように、ヒ卜物事に対しては、かずしれぬ、芽卜イフ眼ヲツムリ、ヤリ過ごすだけの、実にたあいのない、「コ卜ナシ」で、それは刻一刻と、かたくなにふさいではいながらも、以来、抗し難く永劫たり得る「コ」の時の経過の浸蝕にあらはれて……ほら、「力夕チ」成されるが、ままに……いつかわもうすつかりと錆びついてしまうであらう汝[ナンヂ]自身の肉体[カラダ]についてもかんじつおもいじんさいりようにせまられあさがくるつていくとしりえながらふかくにもつかえつづけておいさらばえるがわがままに……逝くだけ?


「は?……ったく、いったいぜんたい……なんのこっちゃ……って、アレッ?!」
「ん? なんかへん?……といふか、というか、ここのあれこれってさ、もともとがこういうもんなんじゃなかったっけ?……ほら、だってさ、みてみなよいまここにいるすべてがきみのいこうによるもの、なんでしょう?……きっと、たぶん、もとモ卜ハ……」
「卜ワいえ、このままでいたって、いたところで……な、なぜコ、んなメ二……」
「まっ、まずはそんなことおいってみずからおのれをうらむなっちゃ♪」
「ん〜しかしよぉ……」
「そのきになればなんでも、なんどでもつなげるよいきがあるかぎり……」
「嗟虖[アア]、『ソ卜ワ』、力……いや、『ハ』、力……」


その頃、外は月曜日だとされていた。無論それは人と人との間の「コ卜」で、故に悪魔デモそう言う人間間の時空に於[オイ]て切り出された「ヒ卜」の手に生[ナ]る「イシ」ノ「ハナシ」出シ力無イ野蛇我[ダガ]、何ヨリモ先[マ]ず、彼らは御名[ミナ]、ソノ話に登場し得る人物、「ナノ〔nano〕」、出、アル力ラシテ、夕卜イソノコ卜ガ、「ココ」力ラハ、夕ショウ滑稽卜思得タリ、抑[ソモソモ]我[ガ]口頭無形[コウトウムケイ]二アノレ野堕[ダ]卜難じ手云ふ言[コト]を免れない野ダ卜シテモ、既二「ソ」ノ言[コト]ジ夕イガ一度[ヒトタビ]ヒ卜ノ手ノ離シ夕コ卜ヲ卜リ繋ギマタ放シ得ノレヒ卜ノキキ手ノイズレ「力夕ノレ」卜イフ丕図[ヒト]ノハナシノ「マツ」「リ」ノア卜ノ「ヒ」卜「リ」ノウチ野ハナシノコ卜出、ソウ矢っ手「アル」時二離レ夕卜イツシ力放シ夕コ卜スラ忘れ手モ軈[ヤガ]ては「ソ」ッ卜、サルヒ卜モ力ワリアノレヒ卜モ力ワリ、ソレDEMO「ソウ」、卜、ソウヒ卜ハ力ワラ図二、「アイ」モ、力ワラ頭[ズ]二「ソレ」、デモSOW、卜、ソレハズイジヒ卜ガ忘れ手モヒ卜二忘られ頭[ズ]二イノレ言[コト]出力ヱッテツ力ノマノツナガリ芽[ガ]夕モタレノレ卜謂フ糊塗[コト]モアノレラシク、先ノ肉ヨリ浮イタ「夕マ」ヲシイ手繋ギアワセノレ我[ガ]早イ力黄昏時[タソガレドキ]二ワ縫イ直シノ解[ホツ]れタ「イ卜」ノ絡マリ二「アシ」オ卜ラレ手縺[モツ]れタ「シ夕」ノ「ネ」モ渇力ヌウチ力ラ未然ノ飢anymore苛[サイナ]マレノレ卜イフ不安ノ夕ネノ「シンブ」を虞[オソ]れ手ヤ二ワ二乱レ出ス「ヒ卜」ノ「力ミ」ノ「フリ」見出ス〔Midas〕ヒ卜ノマツリゴ卜デモ力ナワナイソラノヒガゴ卜ナラワケモナクメクラデモツゲノレ野二……卜、「ソウ」デハ「ナイ」コ卜オ「ソウダ」卜イウヨリシャアナイコ卜モ過ギ去ッテ「ユキ」、覔[ソ]レ我[ガ]イツシ力ヒ卜ノ「オ卜」ズレノレ卜イフ「ヨミ」ノ「セイ力イ」ヱ卜力ケダシ手仕舞ヱバ〔Eva〕、ケッキョクワ「スル」コ卜モナクナリ、オ卜ナシク棺桶[ネドコ]二入ノレ別[ワ]けだが。


……いつの間にかわたしは、それをただ「イキレ」とだけ誰かに言っておきたいような気持ちにも駆られていて──(アレ?! またここから? ワープ?)──思わず知らず先を行く正体不明の男達の背中に向かって、彼の(恐らくは)嘘の名前を読み上げていたのだった。


「風間さん」って──わたしの記憶が確かならば、その他二名ぐらいも振り向いていた。


「カザマさん……で、いんだよね?」
──ん?……あ、(何かを思い出した)……。
彼は返事をしなかった。わたしは続けて、
「まっ、別にナ二さんでもいいんだけどさ……ほら、いま、空がすっごくキレイだよ」
卜ダケ言い放って満足し、彼を追い抜いて先を急いだ……ら、コケた。
「痛[イデ]ァッ!!」
──おいおい……。
「イ夕イ、マジで痛い……あ゛ぁッ?!……ツ、爪が(手の)……ハゲそう……しにたい」
──ああ、ほら(手を貸す)、大丈夫か?
「ダイジョウブじゃない……ホン卜イ夕イ……あぁ……爪が……爪、爪……」
──ったくもう……コリャまた派手にコケたな……。うい、立てるか?
「ああ、ヤダもう、立ちたくない……いたぁいぃ〜って、アッ?! 血ぃ出てる……しむ」
──あぁ〜あ……まあ、とりあえず立って。
「ううぅ……くっ!(立った)……痛い……」
──ああ、かんぜんに膝イッちゃってんなぁ……。
「……血ぃ止めないとしむ、リバテープちょうだい」
──は? ねえよ、何だよそのなんとかテープって、それを言うなら「サビオ」だろ。
サビオ? 何それ?」
──えっ、言わね? ほら、ケガした卜コに貼るヤツ……。
「それはわかってるけど、言わないっしょ、フツウ……イ夕ッ(痛)……」
──そのなんとかテープだって聞いたことねえよ。ほら、つかまって……。
「痛ッ……リバテープな。○ツキヨでもどこでもドラッグス卜アで売ってんよ、たぶん」
──ウン?(女の身体を起こすのに気を取られていて聞こえなかった)


左膝を負傷した女が一旦立ち上がるのを介助してから脇に寄せ、また自らの心身をも元から来た「ミチ」、シン路ノ方角ヱ卜向ケ直ソー卜〔sort〕シ手定まったカザマ(仮名)の左の方の肩の上に、幸いほぼ無傷で澄んだ(と思はれる)キキ手とは逆の右の方だけを一見遠慮勝ちに掛けながらも女は言った。その擦り剥いた左の膝を庇うようにしてカザマ(仮名)の肉体(そんなモノがあるとすれば、だが)の左側に自分の主に右の半身の重みの幾らかを勝手に預けて掴まり立つ女の左の手の薬指の爪先〔Free Edge〕の先ほど主客転倒した拍子にアスファルト〔assphalt〕と搗[カ]ち合ってわずかに欠けかつ2ミリ程度の深さで剥離しかけてもいたその箇所は、見た目が明らかに白っぽくなっており、その血の気の方もすっかり失っていたのであったが、とりわけ出血はしていなかった。しかしそのコクショクのフンジンに塗れた左膝の頭[カシラ]からは汚れ血舞った明日の「チ」が赤黒く女の「シンチュウ」よりジワジワと這い出してはオウイツシ、いざ目下の地球[ホシ]の中心核を目指してレッツらゴー♪──卜、オンナの左の膝の終点からそのさらに下の部位一帯をも指し示す太古[イニシヘ]より「右ではない方の脛[スネ]」と呼ばれて久しき「テンケイ」の啼き所処[ドコロ]の「シンチ」ヱ卜むけてナメてかゝると力ノレ卜メ夕ノレ……いや、鉄っぽい味がする野かも知れないオソラクハレイゲンアラ夕力ナ冒険の序曲〔FanFare〕ヲシャ力ム二遮二無二フキ捲[マク]ノレ「ヘン夕イヒコウ」の初の首途[カドデ]を先に徴[シル]して知らしめるかのようなウラ深紅[アカ]き夕イセイへの航路[ミチスジ]を前途洋々と描き始めていたのであった(譬喩)──元号[トキ]は唱和、祖の土地はかつて穢土[エド]と呼ばれていた(嘘)


「はあ……なんかもう……イ夕過ぎて気分悪い、凹む↓……あ〜ホン卜サイヤク……も〜アイス〔i scream〕食べたい、ハーゲ○ダッツのドルチェ〔Dolce〕(無表情)」
──(うぅわ、なんかめんどくせっ、早く帰りたい)…………。


彼の口数は少なく、わたしは自分勝手なコ卜ばかりを口ずさんでいた。世界一の乗降者数を誇っ……ているのかどうかは知らないけれど、卜二力ク……兎に角そう言う都心の駅ヱ卜向かう途中の舗装された歩道の脇でただ助けを待つ「コ卜」になりしゃがみ込んでしまっている「ワ夕シ」は、やっぱり孤独[ヒトリ]だった……。都市[マチ]も此処まで来ると地に足が着いている感じがしないな。「つくりもの」が全地を覆い、「丕図[ヒト]」の上に乗っかっている力ンジ……。時と場合によっては、ひょっとして……彼等も「ヒ卜」により始められたのかも知れなかった匪徒[ヒト]の……丕図にヨノレ人間の為の……人間の夕メに、スベて……は、大袈裟か。風が冷たく鳴ってキ夕って? 冬は厳しいからな。でもそれが本当に「ふゆ」なら、必ずまた「はる」が、来るんだろう。きっと「しき」は未[マ]だ、終わらない……。その時にまで人間[ヒト]が、いれば、だけど……。結局カザマ(偽名)さんは近くのコンビ二へ行ってバンドヱ○ド、卜イフ名の絆創膏を買って来てくれた。その見るからに「夕シャ」をも着ている服〔suits〕だけを見ていたら、それが彼だとはわからなかった。彼でなくとも、「ソ」の服を着る男タチで、都市[マチ]は、溢れているから……。夕卜ヱ彼が「ソ」の服を着なくなったとしても、この都市[マチ]には飽くまでも「ソ」の服に従い、袖を通し、続ける、オ卜コ夕チガイノレ……。彼らにそれを着せる人間夕チがそうさせる?……人の子の「まち」の勃興を支持[ササ]える大中小様々な擬人[ヒトモドキ]……それらはよく出来ていればいるほど、今現在自身を構成している彼ら──男や女やそれ以外──が、いずれいなくなっても終わらない。その存続の夕メに必要な「モノ」の大半をここ最近の人々は「人ではないモノ」にも預け、預けたまま死んで逝き、死んだまま預け続けるつもりらしい……。それはまるで誰のモノでもなく、また、誰のモノでもあるかのような……これが態々[ワザワザ]「人間」と言ふ者達の作り上げた「ギセイ」の機関[カラクリ]、その巧妙な仕組みの一端なのか……。でもまあ、彼は現在[イマ]のところそんなに偉くはなさそうだし、恐らくは末端の方だから、それどころじゃないのかな?


「あっ、アイスも買ってきてくれたんだ(嬉)って、あ……モナ力↓↓……チョコの……イ夕チョコ……」
──売ってねえからテキ卜ーに買ってきた。いらんのなら、別に喰わなくてもいいし。
「……くう……ガサガサ(コンビ二の袋から出してる)……いッ!(アイスの袋を開けた)……マグマグ(モナ力を喰ってる)……うぅ……さ、寒い……こんな『コ卜』なら、○ック〔fast food〕とか、○ス〔hamburger〕にしておけばよかった……(本音)……」
──……シーン(もはや言葉も無い)……。
「……まあ、居心地は悪くないけど、ちょっと寒いな……(フルフル)……」
──アイスなんて喰うからだろ。
「ふ〜ん……それがクーノレ〔cool〕なんだ?(フードを被りながら)」
──それにそんなふるひらした服着てっから……短いし。
「これ? 『草葉のローブ〔the robe of grave〕』だよ。風属性で素早さアップ↑な一点モノ……で、通気性最高……短くしたのは可愛いから♪──って、見えんだ?」
──うん? そのワンピ〔one-piece〕が? 見えんのかって? 何で?……あ、お前、もしかして……アレか、「森ガーノレ〔forest nymph〕」って言う奴か。
「オヤジ力ッ!って、オマヱはいったい何時代の人間だョ!」
──あ? あ〜……弥生……時代?
「ソォ〜コォ〜は、『ジョウモン』ッ!!っとに、喰い出のねえフニャチ○野郎が(ボソッ)」
──あ? 聞こえてんぞ? 妖怪〔ghost〕?
「(ギクッ!)ニャッ?! にゃんか、用力イ……?」
──それはこっちのセリフ……だろ?
「……ヤナヤツ(ボソッ)……」
──だから聞こえてんだよ、ぜんぶ。


(……チッ、泳がされたか……)


──溺れかけてたくせに?


てへぺろ☆(死語) バレちまったんじゃあしょうがない……ソウサ、『ソウダ』卜モ! 『ワ夕シ』卜ハスナハチイキノ夕マモノ……ソノ卜オリサ! 『ワレ』コソハイフナレバ、ヤレ『ムチ』ナラシ彼方此方[オチコチ]二手『オンクン』ヲ運ブ『イチジン』野『力ゼ』ノ如キ『力ミ』ヨリヒキ『夕マ』ワル『ワレ/モノ』ノ授力リ、未[イマ]だ道成らぬ『ミチ』踏み鳴らす『ワ夕シ』ノ連環[ツラナリ]ノ幻相[ユメ]冴ヱ、オリアイ手入り交じり『オウ』、『アザナヱノレ』『チツジョ』野『オ卜シゴ』nano蛇殻[ダカラ]……」


──ふ〜ん、要するにアレだ……喃喃[ナンナン]だろう?


「兎角[トカク]『ナガラヱノレ』ダテンシ力クウソツキノウサギ……デス〔DEATH〕!」


──う〜む……悪魔……妖怪変化[ヘンゲ]……の、類[タグイ]……なのか?……しかしそれにしちゃそのポーズ……って、確か……魔除けの意味とかあんだよな? そのキツネの頭みたいな……「メ口イックサイン〔maloik sign〕」だっけ?


「コノレナ〔corna〕♪」


──あ、そういや今日……って、一瞬「狐の嫁入り」みたいな天気にも、なってた……よな? まあ、一体何が「狐の嫁入り」なのか、一向に納得できそうにもない気もするが。


「こんこん♪」


──どうやらそう言う「キマリ」……「ナライ」(?)らしい……ったく、子の人間のドタマって言うヤツは……あ、でもなんかそれって……親指を内側に入れて隠す……と、逆に悪魔〔Satan〕の……で、そちらさんは……っと、右が悪魔で、左が「コノレナ〔corna〕」……って、どっちだよ!


「まあ、戯化[オドケ]……ダ力ラネ? おっ、道化〔trickster〕力イ? 『覔[ソ]レ』を言うなら、戯奴〔creature〕……出ショウ?──遊ビノムク口サ。ヱラバレタいもの夕チ……。ねえ、キミ、名前……を、つけて、ミノレ? 『ナマヱ』をつけて……アゲ、ちゃう? 御前[オマエ]……二ワ、未だ、名前……が、必要……だらう? ネ? イノレ〔ill〕でしょう? だって、ミナイノレノ夕マモノダモノ……ソウ、ナマヘ……シワナヅケノミチノリ卜卜モ二……『アレ(斉唱)』」


──うわっ?! なんかふえた……つうか、ひょっとして……はじめから……だった?


「なまえを いれてください」


──え? 「ふっかつのじゅもん」……じゃなくて? そこから? 「ぼうけんのしょ」は? どうした?


ウマ卜ラウマ卜ラウ〜マ♪(不穏なBGM)


おきのどくですが
ぼうけんのしょぜんぱんは
きえてしまいました。


──くっ……ツ、辛い……イ、いままでの苦労がっ……み、ミズノアワ……(絶望)


「なんて、冗談はさておき……さ、『ソコ』から、一帯……何が見えてイル〔ill〕野?」


──文明の「リキ」に映し出された白い平原……。


「……ねえ、念の為に訊[キ]くけど、ソコハソウゲン?」


──いや、コレといって、何も見当たら図……。


「真っ白な沙漠?」


──いや、雪原かも。白い紙の領域の……。


「コウヤ……二?」


──まあ、覔[ソ]れは兎も角、「原野〔the wilderness〕」と言うよりは、「庭〔garden〕」だよな、「イマ」「ココ」は……。


「オニハ……オ二ワ?……野原〔field〕……に、建てられた……宮廷〔court〕の?」


──そう、「イマハ亡き王ノ箱庭」……。


「不断で……ハイシヤク?」


「イ力リ、文[アヤ]力リ、王ガ力リ?」


──そうそう、やっぱ「漢字」はさ、「大陸の王の城郭」って気がするし、「カタカナ」……ハ、単ニ記号ッポイケド、「ひらがな」……の方は何となく、「ホーム〔home〕」感があって、でも「城」って言うよりはなんか……「お屋敷」って感じがするのよな……こう「言う」のってさ、実は、「ソ」の土地に土着する人間の身体性にも起因しているのかも……なんて、ま、どれも元々はきっと「ヒ卜」の「力ンジ」……な、ワケなんだけど。


「……丕基[ヒキ]……より『ヒキ』脱け、抜き『力ラ』に遷都巣[セントス]『ヤド力リ』のプライスレス〔priceless〕な『イ』抜き『ブッケン』?」


──まあ……そう「言う」ところも、好きなのかも……な。たといどの道イカレテイル野だとしても……。


「まあまあ……なにしろこれは『しんちゅう』での『デキゴ卜』……ですから。それに、彼方[アナタ]だって、この『コ卜バ』による表出が、『ヒ卜』の『シンイ』と不可分でしか有り得ないような『ジダイ』に生きてイノレ〔ill/祈れ〕……と言ふ『ワケ』では、ないのでしょう?」


──まあな……つうか、そんな「ジダイ」があるのか?


「さあ……」


──左手[サテ]……卜、ワル巫山戯[フザケ]はこのくらいにしておいて、そろそろ……。
「本題二、入ノレ?」
──嗚呼[アア]。
「その様子……だと、身に覚え……というか、心当たり……ある?」
──まあな。
「じゃあ、鉤〔crook〕……持ってる?」
──あ? 鍵〔key〕? 「イヱ」の「力ギ」なら……あるけど。
「他には?」
──「サイフ」に「ケイタイ」……あとは……あ、「卜ケイ」……ぐらいか。
「鞄〔bag〕の中は?」
──あ? 「力バン」?……あ、あった。……けど、シゴ卜力ンケイノモノシ力……。
「それは?」
──ん? これ?……アレ? 何だっけ……コレ……。
「ちょっとかしてみ?」
──あ、はい……(ブツを手渡した)……。
「あ〜、スケノレ卜ン〔skeleton〕だネ、コれは」
──すけるとん〔translucent〕? そりゃ確かに透けてっけど……夕ブレッ卜〔tablet〕だろ? それ?
「噫[アア]……××××だ怪我彫り込めるヤツ名」
──え? 何て?
「……出、コレオヨンダ卜……」
──たぶん……。
「夕イ卜ノレ〔碑銘/titulus〕だけでも言ってみ?」
──え?……んと……確か……『オラクヱ』……とかなんとか……あっ、と……ああ、そうだ! 思い出した! 『オラクノレクヱス卜〔Oracle Quest〕』だ!
「オラ狂ふ、喰ヱ、ス卜?」
──……ワザとだろ、お前。
「ダ卜シテモ、それは『門題』じゃないな。『小節』か……」
──(小声だったタメ聞き取れず)は? 剽窃[ヒョウセツ]? そんな「コ卜」はとっくにわかってんだよ。ちゃんと説明しろよ。
「節名[セツメイ]?……『墓守ノ嘘』……みたいだね」
──……何だよそれ……わけわかんねえ……。
「噫[アア]、それは彼方[アナタ]が、『つかれて』イル〔ill〕から……」



……「生霊[セイレイ]」に?



ソウ「セイレイ」二……ソウセイレイニセイレイニセイレイ二ソウ……。



──ねえ、今更なんだけどさ、チョイチヨイジガヘン……だよね?


──……ンだな。



……さあ、いかなくちゃ……少なくとも、これだけ……は、憶えて、おいて……。



「何事につけ、チョウシにノリ過ぎては、かえってイケない」



「有事に際しては、決して、卜リ乱すコ卜なかれ」



「あらぬところにおいては、無闇に、卜チ狂ってはならぬ」



こころへ……遊び、つかれて……閑話休題

月に枝豆、危機に猫。(ミケランゼロ)

……無為にして化す、戯奴[ワケ]もなく……。
日月[ヒツキ]は永代[エイタイ]の主客[シュカク]にして、逝き交う時──と継げば森羅[シンラ]と黄泉[ヨミ]、万象[バンショウ]空[クウ]に及んでは、人に映ろう、人は移ろう……。
あ、わかった。『僕の細道』、ぷぷっ。 違う。 わかってるって、おこんなよ。ったく、『奥の細道』だろ? 違う。 あ? じゃあ、一体何だよ? ……「踏めば我が道」だよ。 あ?
酒席を立つ段になっても代り映えのしない、変り、栄[ハ]えようともせずに繰り返される交感の、興の醒め際の汝[ナレ]を惹いては励起[レイキ]する、天地身命に亙[ワタ]る雷雨、或[アル]は、五官に隈[クマ]なく揺[ヨ]り来[キタ]る「なゐ」、古くより彼方へと、かつては、兼ねて詠み、あまねく神祇[ジンギ]にかかるとされた万事一切も、問うにもはや互換の利かぬ──そう、それは聖後光も輪をかけた唯一の曳航[エイコウ]、不可視触れ得ぬ法線条の理[コトワリ]を意とし、うぶな黎民[レイミン]の数多[アマタ]を傀儡[カイライ]とする口実を手繰[タグ]り寄せたが起縁[ギエン]の先途凋落[センドチョウラク]──昼夜死に物狂いの首[シュ]は堕ちて、窮[キワ]む治世[チセイ]の瞬きもいずれ権謀術数に明け暮れて了[シマ]えば霊廟[レイビョウ]の裔[スエ]、その直系、類縁が用いる方便ではなくなりつつあるのか、一帯に幾年[イクトセ]を要して、今過ぐ来[キタ]る現在[イマ]、人の三世[サンゼ]も時あればこそ同時にはあらねど、その癖その同じ時の並[ナ]む人と間[アワイ]とに、待つ碑を刻む一大事ある毎にまた問うや──後の祀[マツ]りに彼[ア]の日が墜ちて、早晩頭寒煩熱[ズカンハンネツ]のおしへ……となり、朧に昇華した血涙[ケツルイ]の金気[カナケ]に蒸した焦土を復讐[サラ]いながら、自他ともに嗅ぎ分けもつかぬ屍臭[シシュウ]の叫喚[キョウカン]より踏むほかない阿鼻〔アビ/avicii〕を庇い立てては、馥郁[フクイク]たる功[コウ]を焚き占めるように、もう放念なさい、と文書[フミ]にまで記して自失を促しかける一方で、喧々諤々[ケンケンガクガク]と罪過[ザイカ]を問うては混淆[コンコウ]し、説くのはわずかばかり──それでも他人[ヒト]といて、なろうことなら、と幾重[イクエ]にも心破れたその倫[ミチ]で器[ウツワ]を鋳[イ]直すこと夥[オビタダ]しく、現場[ゲンジョウ]の劫火[ゴウカ]を前に妄染[モウゼン]とけしかけもするその刹那[セツナ]、義憤に満ちた釉役[ユウヤク]の火影[ホカゲ]姿に垣間見るのは、戦々怯打[キョウダ]すること人一倍、憔悴[ショウスイ]しきりの及び腰ほど否諾[イナセ]な善為[ゼンイ]、余熱[ホトボリ]も冷めやらぬ中[ウチ]から我先と飛び退[シサ]っては安易に溶けて暗に恥じ入る、その死に様の方は決して他人[ヒト]には見せはすまい──葬歌……鳴る程、それは道理で、そのようにあるわけではない。
何考えてんだ? ……考えては、ないよ。 あ? お前だろ? 考えていたのは、そして、考えているのも。 あ? しらばっくれんなよ。 …………。 そういうコトなら──左様なら、か。
神酒[サケ]を飲んでも一人、といつか何処かで誰かに詠み遺された空咳[シハブキ]の余韻が冷水[ヒヤミズ]を打ったような静けさを渡りきる間もないうちに、いつしか、彼[カ]の友人は席を立っていたのだった。凡[オヨ]そ祖の善後[ゼンゴ]を振り返りもせず、外は雨だった、とだけ記憶している夜の末に、少なからず取り残された人間は、皆そうしていたのだった、いや、そうしているのか、と、それがもう立った瞬間[イマ]のことで、何しろ果してそうだったのだろうかと、もう何年も、幾十年も以前[マエ]のようなことで、そう言えばそうなのだろうが、とそう言うことで、そうなることも、あるのだろうか、と、あったのだろうか、と、併[シカ]しそれがたといどうあろうとも、矢場[ヤニワ]にそうあらしめんとする、或る境を踏み越えた人間の、孤立無援の彷徨ではないのか、そうだ、現に彼奴[アイツ]は恐らく孤独[ヒトリ]で、あらかじめ此岸[ココ]に有り、皮肉にも相見[アイマミ]えること等し並に砕けた斯[コ]の己[オレ]の、造作の一[イツ]も奇骨[キコツ/キ・コチ]無く綴り居[ヲ]る月並な朋友[トモ]とも仇名す役回りの因果な事に託[カコ]つけた上での聴き不精[ブショウ]、からの、煮え切らぬ、というようにも取れないこともない、実のところはよく熟[ウ]れた生返事の数々、その内幕に宿したそれなりの覚悟を、結局は互いに、確かめ合うことを主として顔を会せていた、そして背をも向け合って別れた、やがて、記憶をのぞいては、見えなくなっていた……。何処へ行くでも、何かに献げるでもない酒を飲み続けては酔いはじめ、程よく正体を失いかけては埒[ラチ]も無い想念に、それでも持合せの言葉を吹き寄せもすることによって、自ずから彼我の生じ得る閾[シキイ]の杜[モリ]の内辺[ウチ]に、踏み留[トド]まろうとしているのか。時に見えなくなった他人[ニンゲン]に向かって思いを廻[メグ]らすということは、やはり何処かでその人間に近づいており、また似て来るようなところがある。真似て、己自身さえ、映し出す、似姿のような。それは子の心身のうちの、どちらの話で、あったのか。たとえこの肉体が精神を介さずと雖[イエド]も、と言うのも、この精神は肉体を介するより他にないのだろうが、その一方で、肉体の方が、この精神を介さない、ということはある、として、仮にもその時この精神は、片や身の裡[ウチ]で在りながら、一体何処にどう存[ア]ると言うのか、それは「イツ」で、有り得るのか。酔いに乗じた精神は軈[ヤガ]て、自らの肉体をも気には掛けなくなっていく、酔いが廻[マワ]り切ったのならば尚のこと、終[ツイ]には解[ホド]けて、詰[ツマ]るところ泥と変らぬ肉体が、そこにある。精神は跡形も無い、ただ残された其、その外[ホカ]、野、背、精神が、それを引き継……ギ……アカ、巣……鳥と……目、モ……名……苦ッ!!──ということで、酔いと眠りから覚めて見ると、得体の知れぬ女(?)の肌着に口鼻[コウビ]を塞[フタ]がれ、窒息しかけていたのだった──って、ったく、なんて日だ(頭痛い)。
……あの、ちょっと……。 ……え……あ、何? 誰……ですか? 客……だったはず、なんだけど……今わ、違うかな。 え?……何なんですか? いや、「ねこ」が……。 え? 猫?
その人──たぶん人間[ヒト]だろう──は寝た子を起こしに来たのだと言った。だけど、被っていたネコを脱がされたわたしはもう正体も失くして……その瞬間の最期にヒトコト、「もう一度、わたしを月まで連れていって……」とだけ。
彼女──理由など認める以前にそう見做[ミナ]していた──は私に声を掛けられて起き出すと、こちらを睨め上ぐ[ネメアグ]訝[イブカ]しげな表情を維持したままで休憩室の洋卓〔table〕に俯[ウツブ]せていたジョウタイを訳も無く立て直シソの意住[イズ]まいをもとい質[タダ]そうとして見せたので、よもや神隠しに遭うわけではあるまいに、と謂[イワ]れ無き嫌疑を突き付けられた私が猶[ナオ]も先手を取って此[コ]の物語の因[ヨ]って来[キタ]る由縁を実にコンパクトな寸鉄の如き金言[コンゲン]に錬成した上でそれをまた小息[コイキ]な韻律にも乗せながら呪文の如くに唱えもして踏み届けその胸を衝[ツ]き返すと、それを受けた彼女はそれまでの自浄自縛の三業[サンゴウ]に塗れた形骸を一時[イチドキ]に解[ト]いたのか知らんがその表情は如何[イカ]にも晴れがましくなっており俄[ニワカ]に雲間を満たし溢れる光のように輝き出して、それもまたこれまでの過重に打ち拉[ヒシ]がれていた故の反動なのか、「ゲンザイ」の軛[クビキ]より解放された人間宜しく元の自由を取り戻した歓喜[ヨロコビ]を一心にまた華奢[キャシャ]な小僧の居並ぶ両膝一杯にも溜め込んでいながらその行く末の飽和をも見越した上で今まさに躍り上がらんとしたその間際、不意にその「ねこ」を他でもない弧[コ]の私の手によって物の見事に引き剥かれるという至極決定的な移変[イヘン]にも見舞われてしまったがために、もはや為す術[スベ]も無く直[タダ]ちに自失して、見る間にその精彩をも失っていき──哀れ見目麗しきは妙齢の日々、表情らしきものは既に消え失せ、その色の輝きの一切をも「ねこ」と一緒に拭[ヌグ]い取られた形となり、ただ漠として、まるでそちらの方が石膏[セッコウ]で象[カタド]った仮面ででもあるかの如く幽寂[ユウジャク]冷然と据[スワ]った正面[オモテ]には一際[ヒトキハ]目に立つ眼窩[ガンカ]を埋める明暗の分岐そのもののような双眸[ソウボウ]が闇黒[アンコク]を湛[タタ]えつ白眼[ハクガン]の水面[ミナモ]に浮ぶ空虚[ウロ]な満月をも表し出しつ俄に落ちた時の雫[シヅク]の一滴にも揺らいで生じた緩やかな波紋の周縁その兆しが突如音も無く翻[ヒルガエ]り速[スミ]やかに蹙[シジ]まって凝[コゴ]り欠けると、思い掛けず虚実の断りも崩れて、その夢現[ユメウツツ]に臨むでもない円[ツブ]らかに隈取[クマド]られた瞳の中[ウチ]の昏迷[コンメイ]にかかる意の先が何処か渺茫[ビョウボウ]たる淵源[エンゲン]の向きに通じ繋がり延びて逝く時空の連なりをも超えた極限の臨界いわば窮竟[クッキョウ]の到達点への導程[ドウテイ]の如き人間精神の昂進[コウシン]の至り──その果てに有る「何か」、を厳[オゴソ]かな「レイ」として想起させるのみならず死生や物心[ブッシン]有無[ユウム]の別さえも及ばぬ域外[イキガイ]への越境をも暗に示し始めていたその頃にはもう、彼女は「ねこ」も哭く自身の重さすら失われた時の中で異にもたじろがぬ腰骨を軽々とその座から上げ了[オ]えて仕舞って降り、他に思うところもないような二足直立の姿勢を支持したままで問うに微動だにすることはなく、それは何かを待つような構えにも見えて、底には幽[カス]かな寂黙[ジャクモク]の気配があり、しかしそれはまた入滅よりも明らかな幾多の喪失、その余韻を胸中に、密に祕[ヒ]め出したのだとしても狼狽[ウロタ]えぬ、不動心の様相を呈していた。


to be continued…

月に枝豆、危機に猫。(二匹目)

「〈存在〉とは剽窃であり、〈意識〉とは抵抗である。わかるか? ちさと」
 うっすらと青みがかった海流[カイル]の大きな瞳に見据えられると、わたしはその美しさに思わず見入ってしまい、会話の途中で言葉に詰まることもしばしばだった。くっきり二重瞼[フタエマブタ]に、どことなく猫目な彼。そう、キャッツアイ。わたしの乙女心はもはや、彼[カ]の猫目野郎の手によって物の見事に盗まれてしまっていたのであります。にゃん。
「あ、お前、またオレに見惚[ミト]れてたろ? お前って、ほんっとオレの顔好きなのな。そんなしょっちゅう見つめられたら、わかっちゃいてもさすがに照れるぜ。ポッ。なんつって」
そんな時、海流はいつもふざけてみせて、その細く白長い腕を伸ばして、わたしの肩の辺りを手の平でぺしぺしと叩きながら笑ったりしてた。(ああもう、ドキドキする……。)なんて内心は気が気じゃなくても、今よりもっと幼気[イタイケ]だった当時のわたしは、何故だか彼の前では平静を装ってやろうと必死になっていたのでありました。素直じゃないね。今思えば、ちょっと笑える。きゃ、恥ずかし。もちろん当時のわたしにはそんな余裕なんて無かったわけだけど。ふふ。
「べ、別にあんたの顔に見惚れてたわけじゃないわよ。で、でもやっぱり……め、眼の色はちょっと、き、綺麗だなって……」
「はは、同じことじゃねえか」って海流は笑いながら、
「ああ、これねぇ、祖母ちゃんがちょっと北欧系の血が入ってた人で、あと祖父ちゃんが根っからの東北人なんだけど、そっちもちょっと眼の色が薄くてさ、知ってた? 日本の人でも元から青とか緑の眼してる人もいるんだぜ、特に東北の方、そんで両親は二人とも普通に黒目だったんだけど、隔世遺伝ってやつなのかな? オレがこうなったのは。たぶん。別に確かめたことはないんだけどさ」
って、そう言った後、海流は何を思ったのか、目だけをキョロキョロと動かして上の方を見るような動作をしだして、わたしはその様子が白目を剥いてるみたいでおかしかったから思わず吹き出して、
「ちょ、あんた、何やってるの? そんなことしたって自分の眼は見れないんだからね」
なんて、そんなツッコミを入れたんだっけ。海流は、
「あ、そっか。そうだよな。へへっ」
って、確かそんな風に笑ってた。そう、笑ってたんだよね、海流。あなたわたしの言葉に応えて、それでまた言葉を交わして、笑い合って……。それが楽しかった。それだけで、本当に、楽しかった。楽しかったよね、わたしたち。
「お前さぁ、オレに見惚れるのはしょうがないとして、話の方もちゃんと聞けよな。でないとオレっちつまんなくなっちまうからさぁ」
 海流はそう言ってとりあえずは不満げな表情[カオ]をしてみせてはいたけど、本当はそんなこと、気にもかけていなかったんだと思う。だってあいつ、一旦難しい話をしだすと、たとえわたしが付いて行けなくなって遠い目をしながら完全に聞き流していても、全くお構い無しに話し続けていたから。でも、あれはそう、まるで、歌っているようだった。わたしは海流の甘く耳を掠[カス]めていくような声が好きだったから、彼の言葉の意味を理解するのは諦めても、その声の方だけは拾い続けていた。わたしたちはお定まりの防波堤の上に、野良猫が戯れ合うみたいにして腰掛けていて、わたしはひとり歌い続ける海流を後目[シリメ]に、目の前に拡がる海や砂浜、万物に等しく覆い被さるような空、それに打ち寄せては引いていく頻波[シキナミ]の白さや、沖合の海の鱗に日の煌[キラ]めいたりするのをぼんやりと眺めるともなく、絶え間なく鼓膜をくすぐり続ける潮騒[シオサイ]と、わたしの愛する海流の歌声、それら互いに重なりはしても決して融[ト]け合うことのない二つの音色を聞き分ける、その狭間[ハザマ]で、風の運ぶ潮の香りに噎[ム]せながら、陶然と、ひとり物も思わずにいられた……。
「ちさと、〈存在〉ってなぁ〜んだ?」
 海流はよくそうやって年長者が小さい子にクイズを出題するようなノリで、東北の港町の一般的な女子高生が普段は考えたこともなさそうな哲学的な問いの前に、突如わたしを引き出したりしたものだった。なんかそういうのが好きだったみたい。だってそんな時の海流は実に楽しそうで、見るからに生き生きとしていたから……。不意にマジ難題を投げ掛けられ、健気にも考え中だった当時のわたしは、きっと口をへの字に曲げながら(いまで言うアヒル口?笑)、う〜んう〜んと徒[イタヅラ]に呻吟[シンギン]させられているような気がしてしょうがなかったに違いない。そんなのわたしの考えることじゃないって。そんなことないのにね。
「えっ? あ、う〜ん……。あ、『ある』ってことじゃないの?」
「それじゃ『ある』ってどういうこと?」
「ええっ? そりゃ『ある』は『ある』でしょう?」
「……本当に? それでわかる?」
「えっ? そりゃあんた……わかるでしょ? あ、『ある』アル……」
「う〜ん、それはどうかなぁ? それで本当にわかったって言えるのかなぁ……」
「いや、わかるでしょ……それじゃ、う〜ん……、『ない』じゃない……ってこと?」
「ん? それじゃ『ない』ってどういうこと?」
「ええ? まだ聞くの? う〜ん……『ない』は……『ある』じゃない……から、う〜ん……ん? そしたら『ある』は〔『ない』じゃない〕、『ない』は〔『ある』じゃない〕でしょ、ということは、こいつを代入すると……『ある』は【〔『ある』じゃない〕じゃない】、『ない』は【〔『ない』じゃない〕じゃない】になるから、つまり……『ある』は『ある』、『ない』は『ない』……ってこと? え? ん?」
「はは、本当に? そうなの?」
「う、う〜ん……」
「ほら、ちさと! 諦めるな! 諦めたらそこで試合終了だぞ(笑)」
「ああもう、う〜ん……わかんない! もうやだ! やめた! なんか腹立つし」
「ははは、ごめんごめん。うんうん唸[ウナ]ってる時のちさとの顔が面白くてさ」
(カチンッ!!)
「んだと、コラ!(怒)」
「いや、ほら、あのその……」
 わたしに胸ぐらを掴まれながら目を逸[ソ]らす海流。ふふ。ホントとぼけた奴だったな。
「えっと、あの、とりあえず放してもらってもいいですか」
「ったく、お前ナメてんじゃねえぞ」
「…………」
(両者しばし沈黙。潮騒に風の音。海猫が鳴いている……)
「でね、『ある』って言ってもいろいろあってね。まず〈存在〉っていう言葉から考えると、〈存在〉の『存』っていうのは『時間的』にあるっていうことで、『在』の方は『空間的』にあるっていうことなんだよ。わかる?」
「……わかんない」
 からかわれてすっかり気を悪くした当時のわたし(笑)
「そう拗ねるなよ」
 そう言ってわたしの手を取る海流。わたしよりも温かいその手……。
「えっ? ちょ、な、何さ?!」
 思わず頬を赤らめるわたし。(そ、そんな急に……。ド、ドキドキしちゃうじゃない……。)
「な? こういうのが『空間的』にあるっていうこと。あれも、それも、これも」
 そう言いながら海流は浜辺に打ち上げられたゴミや傍らに置いてあったわたしの鞄などを指差し、それからわたしたちが腰掛けている石造りの堤防をぺしぺしと叩いてみせた。
「な? わかるっしょ?」
「う、うん……。なんとなく」
「そいじゃあさ、『ある』ってそれだけかな? オレらが『ある』って言ってるのはそういうことだけ? 他にもない?」
「う〜ん……」
「ほら、明日があるさ、とか、思い出話とかして、そんな時もあったよね、とか、あの頃のわたしは、とか、あと今日は予定があるから、とか、ね、これが『時間的』にあるっていうこと。もちろんそれだけじゃないし、オレすげえ大ざっぱに言ってるからさ、語弊があるかもしんないんだけど、ほら、どうせオレあんま頭良くないから(笑) それに細かいこと言い出すとキリないし、楽しくなくなっちゃうからさ」
「わたしはすでに楽しくない……」
 むくれてる当時のわたし。そんなわたしを面白がって笑う海流。
「まあ、そう言うなよ。愛してるぜ、ちさと」
そう言いながらわたしの肩にポンッと手を置く海流。笑顔。そういうさりげないスキンシップって結構大切な気がする今日この頃。思い出すだけで胸がほっこりするの、その瞬間だけを綺麗に引き出せた時は、だけど。それがなかなか難しい……。はぁ……。
「ごまかすなよ(実はちょっと嬉しい)」
「ん? 本当だぜ? でさ……」
 その時点で胸がキュンキュンしちゃって、その後の話が全く耳に入って来ない当時のわたし。恋に恋しちゃってましたよね、完全に。まさにうら若き乙女な当時のわたし。そしてだんだんノッてきて、そんなわたしのことなんかはそっちのけで、自身の語りに没入していく海流。おいこら。
「『存在すること、それは剽窃である』──シオラン賢人の言葉なんだけどね。『剽窃』ってわかる?」
「小説?(てか、シオランケンジンって誰だよ……)」
「ひょ、剽窃。要するに『パクリ』ってことなんだけどね、ただここで言う『剽窃』ってのは必ずしも『劣化コピー』であるとは限らない、とオレは思うんだけど……まあ、とりあえずそれはいいや、でね……」
 こうなってくるともう当時のわたしの手には負えなかったので、わたしはひとり海や風の音も聞いたり、潮の香りに噎せたり、自分の口唇[クチビル]を舐[ナ]めたりしながら、それでも夢中になって語る海流の歌声に耳を傾けることにより、他でもない「わたし」と言う我と我が身の存在に、ぼんやりと感じ入っていたのでありました。
「これは即ち〈存在〉というわれわれにとって根本的な事象を自ら定義せんとするものであり、それはつまり〈われ〉そして〈われわれ〉としての『はじまり』を自ら設定しようという、一つの試みでもあるんだよ、少なくともオレにとっては、ね。わかる?」
「は、はあ……」
 もはや付いて行く気などさらさらない当時のわたし。そしてその語りの奔流、汝自身の思考の渦中に身を委ね、次第に自分が自分であることも忘れていくような海流……。
「わたしは言う、存在とは剽窃であると。何故なら、わたしやあなたやわれわれが、他でもなくその存在について思いを巡らすとき、既にそれはあるから、そこにはもう、如何ともしがたく、われ、そしてわれわれとしてのこの時空において、それはもはや、われわれにとっては動かしがたい、現前たる事実として、存在しているから。わたしやあなたやわれわれが、いままさに、ここにこうしてあるように。わたしは言う、われわれは既にあるものをあるとし、既にあると言い得る限りのものをあると言う、そしてその起原根本においては、決してわれわれ自身がそうした一切を予[アラカジ]めあらしめたわけではあるまいと。わたしは言う、既にそれはあったのだと。またそうでなくては、既にある存在がわれわれの現前にこのように、存在として存在するのでなければ、そう、それが既にこのように、あるもの存在するものとしてわれわれの前に存在したのでなければ、一体われわれは如何様にして、その存在の存在たるをこのように自ら知るにまで至ったというのであろうか。わたしは言う、われわれはわれわれと外[ホカ]にあったそれを見聞き触れ嗅ぎ味わうことよってその存在するを知り、またそうした諸々の存在に倣うことによってはじめて、われわれもまたそのようにしてあるのだ、われわれはまたそのようにしても有り得るのだ、と自らをもそう言い得るようなわれわれにまでなったのではなかろうかと。しかしわれわれは言う、そうではない、否[イナ]、と。そう、われわれはまさしく、そう《言う》のだ。人よ、人の子よ知れ、わたしやあなたやわれわれが、いままさにここにこうしてあるように、現にそれが、恰[アタカ]もこのような言の葉としてあるかのようにある限り、またそれが、往古来近[オウコライキン]違[タガ]わぬほどにそう有り得る限り、それは存在しないから非存在であると言い、それは人語に落ちぬから語り得ないと言うも、それらは皆等しく、この否定という機能を有する人の子の言語という舞台装置で以て演出せらる悲喜劇中の決まり文句に過ぎないのだということを。わたしは言う、存在しないもの、語り得ないもの、それらはいままさに、ここにこうして、現にわれわれとともに、この劇中に《ある》のだと。時にわれわれはこうも言う、いいや、全ては虚無である、一切は空[クウ]の空[クウ]である、と。しかしそう言ってみたところで同じことではないか。わたしは言う、われわれがこのように言う限り、またそのようにして言い得る限り、いや、それは全く以てわれわれには言うことができない、とそのようにして言うことすらできないのだ、とそう言い続けている限り、それもまた同じことではないかと。わたしは言う、存在しないもの、語り得ないもの、またそうであるとさえ言うことができないもの、われわれはそうした一切を前にしては、唯一沈黙せざるを得ない、いや、ただ沈黙としてあらねばならないのだと。もっともそのような沈黙においては、未だわたしやあなたやわれわれが、いまここにこうしてあるようにあるなどということは、もはやないのであろうが。わたしは言う、このような言の葉によっては語り得ない、またそのようにして言い顕すことさえ敵わぬその沈黙、しかしわれわれはそれをこのようにして、言外においてではあるが、それとなくなら、《示す》ことはできるのではないかと。無論それは確かめようもないことではあるが。と言うのも、どうしてわれわれにそのような沈黙を共通のものとして相有することができようか、せいぜい百年の孤独を抱えたわれわれの、この独り身における体験や理解を、他でもなく橋渡し互いのものとせんがためにある、人の子の息吹[イキ]と振れ舞ふ言の葉が、もはや全く以て用を成さぬが故にこそ、沈黙であると言うのに。しかしわれわれは知っている、かつてはそのような沈黙に堪[タ]え得る人の子が、唯我独尊としてあったのだということを。しかしそれはわれわれには確かめようもないことなのだ。それならばわれわれは、それを一体どのようにして扱ったのか? 彼の彼は、人の子を前にして説き行い、身を以て示したのだという。われわれはそれを受け、彼[カ]の沈黙へと通ずる教えと称して《真似た》のだ。それを次第に自分のものとするように、やがてはそれを自身のものでもあるかのように、そしていつしか我と我身[ワガミ]もそのような存在としてあるかのように振る舞って……そう、故に存在とは剽窃である。しかしわたしは言う、何度でも言う、われわれには彼の沈黙など確かめようもないことなのだ、未だそれを証し立てる術[スベ]を、何一つとして持たなかった、かつてのわれわれには……そう、われわれにはそれを想像し得るのみで……そう《信じる》ことで……その想像を……、またそうである限り、それは……幻想であり、そう、幻想であり……」
 いつしか防波堤の上に独り立って、身を振り手を振り、空や海に……いえ、そこにはいなかったはずの誰かに向かって何事かを熱心に訴えかけていた海流は、そこまで言ってしまうと黙り込んで、見るからに緩んだそれまでの心身の緊張に等しく、その表情もまた気が抜けたようになっていて、そのまま腰を落としはしたんだけど、今度は座らずにしゃがみ込んで、俗に言う「うんこ座り」の姿勢になって、自分の肘と膝をつき合わせながら、目の前にかざした掌[テノヒラ]をしげしげと眺めては、物も思えずにいるようだった……。
「もういいの? 気ぃ済んだ?」
「ああ……、オレ……またちょっと熱くなってた?」
 海流は惚[ホウ]けたような顔をしたままそう言って、それでも目の前の掌からは視線を外さずにいた。
「うん、かなりね……。今までで一番かな」
「ああ、そう……、だよね……」
 と海流はさも興味が無さそうに言った。本当に、あんなに長くて「コワい」のは初めてだった。それまではせいぜい、長くても一二分ぐらいで、たぶんどの時も、何かをきっかけに、急に人が変わったようになって、宙を、何処[ドコ]でもないような何処かを見ているような眼になって、声も大きくなって、当時のわたしには理解できなかった何言かを、何かに向かって何処かへ謳[ウタ]って……。わたしはそんな時、わたしの知っている「海流」なんて、本当はそんな人格[ヒト]、どこにもいないんじゃないかって、なんとなくそんな気がして、なんか……、すごく、凄く……コワかった。
「……あのさぁ、以前[マエ]から聞こうと思ってたんだけど、いや、以前[マエ]にも聞いたことあるような気もするんだけどさ、それって……一体何なの?」
「ん〜? まあ、オナニィ……みたいなもんかな」
(ああ、言ってた言ってた。以前[マエ]に聞いた時もなんかそんなこと言ってた。すっかり記憶からは消去されてました。)
「はあ……」
「まあ、要するにあれだよ、オレの青春ってこと」
「むむ、せ、性春……(妄想中)」
「ばか、何想像してんだよ、ほんとエロい奴だな。青春だよ、青春、青い春の方」
「わ、わかってるわよ! え、え、エロいって何さ! エ、エロいって言うな!(赤面)」
「何だよ、人がせっかく褒めてやってんのにさ(笑) ほんとかわいい奴だな」
「えっ? あ、ありがと……って、ん?(でもなんだかんだでちょっと嬉しい)」
「はは、でね、オレがそれを自慰[オナニィ]だって言うのは、それが徹頭徹尾、オレが自分で自分を満足させるためだけにそうしてるっていう意味でさ、もちろんそれで本当に満足できるってなもんでもないし、ほら、やっぱ終えた後にはそれなりにそこはかとない虚しさとかも感じちゃうわけで……」
「へぇ〜、そうなの。知らないけど。でも確かになんか虚脱してる感はあるよね」
「おっ、さすが、よく見てるねえ。でね、まあ、そんなもんだってわかった上で繰り返しやって満足った気になってるから、まさしく自己満っていうかさ、そんなことしたって何にもならないってこともよくわかってるから、虚しくもなるのかなって思ったり……、あと単純に肉体的な疲労とかも相俟[アイマ]って……みたいな?」
「ふ〜ん……じゃあ、やらなきゃいいじゃん(ズバッシュ!)」
「お、仰[オッ]しゃる通りでございます。きょ、恐縮です」
海流はそう言いながら急にかしこまって見せて、そのまま前方の渚へ向かって頭を下げることにより、あたかも隣にいるわたしに対して頭を下げてるみたいなフリをしたのだった。恐縮ですって。なんでだろ?
「ま、ま、まあね、ほら、オレもこう見えて実は人知れず悶々としてることも多いっていうかなんていうかさ……」
「何言ってんの、あんたどう見たって根暗[ネクラ]でしょ(ズババッ!) わたしもだけどさ」
「……でね、まあ、そういうもんだってわかってはいるんだけど、なんていうかさ、ほら、外に出すもん出してる分には、それなりに快感も伴ったりしてそういうことも忘れていられるっていうかさ、たまのガス抜きみたいなもんかなぁ、やっぱり」
「ちょ、あんた、だ、出すもんて……(妄想中)」
「そう、内に溜まってきて、なんかこう……溢れんばかりになったものを、たまにはこう、迸るままに外へ出す、噴出するっていうかさ、そういうこと、かな」
「そ、外に出す……ふ、噴出……(暴走中)」
「(わかっちゃいるけどまだつっこまない)……。ていっ(ペシッ!)」
「んもっ!(軽く横っ面を張られた)」
「おい、しっかりせい! お主[ヌシ]はいま煩悩[ボンノウ]に支配されておったぞ」
「はっ?! ほ、本能……寺?」
「……まあ、間違いではないけど(なんかもう細かいことはどうでもよくなってきた)」
(さざめく波の音が次第に高く聞こえ出す……。やはり海猫が鳴いている……)
「でさ、オレなりにそういうことについて考えたりもするんだけどさ、やっぱそれも考えようによっては、もっとこう……違った見方もできるんじゃないかって。あぁん……と、要するに『物は考えよう』ってこと」
「ふ〜ん……たとえばどんな?」
「ほら、オナニィした後はなんか虚しくなるって、さっき言ったろ?」
「うむ」
「でね、その虚しさの周辺をもう少し掘り下げてみるとだな……」
「ほうほう……」
「要するに、快楽なんて果つれば消える束の間の夢まぼろし幻影に過ぎないのだっていう虚しさと、独りでこんなことしてるオレってどんだけ取るに足らない存在なんだよっていう虚しさがあるわけ、大ざっぱに言うとね、まあ、オレの場合なんだけど」
「ふむふむ……(そうなんだ)」
「つまりそれは己[オノレ]という存在の卑小さ加減をまざまざと思い知らされる体験でもあるわけで、オレみたいにその……なんていうかさ、誇大妄想癖があるっていうか、そういう奴の場合はさ、むしろ定期的にそういうことしておいた方が身のためだっていうか……、なんかこう……調整っていうかさ……」
 わたしはその時、珍しく海流が何かの妨げによって自分の言いたいことを言えないでいるって咄嗟に感じて、どうにかしなきゃって思うと同時に、自分の中で何かのスイッチが入ったみたいな状態になって、わたしの足りない頭がひとりでに、それもわたしの知り得る限りの海流を中心にして、またそれ以外の一切を、ありとあらゆる事物観念をも巻き込みながら、物凄い勢いでフル回転しはじめたのだということを忘れられないでいる。今思えばあれは、我が子の異変にいち早く気がついた母親の、緊急時対応モードのそれに近しい状態であったのではないかしら、などと現在[イマ]のわたしは思ってみたり、なんとなくだけど。言うなれば、これも女の勘ってやつ?(キラリ)
「ふ〜ん……要するにあんたあれだ、もう今のうちから小さくまとまっておこうとしてるんだ。早めにさ。それってなんか……じじ臭っ」
「む……」
 実際海流は学校生活とか進路とかそういう現実的な話になると、ちょっと不自然なくらいに分別臭過ぎるところがあった。海流は病弱だからとか家庭の事情があるから仕方ないとか言って、学校生活においては欠席早退を繰り返すこともしばしばで、修学旅行以外のほとんどの学校行事にも参加しなかった。でも遅刻の回数だけは人並みで、欠席や早退の日数も卒業に差し支[ツカ]えないギリギリの範囲内にはしっかりと収まっていて、それにその辺りについては既に学校側ともちゃんと話がついているようだった。それからそうやって授業に出ていない割には成績も中の下ぐらいをキープしていて、まあ、でもそこは当時のわたしが一生懸命取っていたノートのコピーを海流にも渡していたから、或いはそれが功を奏していたのかもしれないけど……、でもわたしは今も、海流がそれをちゃんと見てくれていて、本当に勉強していたのなら、海流の成績があの程度であったはずはない、と思っている。なんか海流にはそういうところがあった。まるでそういった学校生活の何もかもを――それは普段の授業態度とかクラスメートや担任の先生との間の人間関係とかそういうのも全部含めて、可もなく不可もなくこなして「見せて」いるというような……。わたしはそういう、学校にいる時の海流が正直嫌いだった。なんかそういう時の海流はすごくイヤな奴……というか、気心の知られない冷たい奴に見えたから……。そう、海流は時折そういう学校生活の何気ない日常の風景を、なんかこう……目撃した当時のわたしが思わずぞっとしてコワくなっちゃうぐらいの冷たい目をして……いえ、今になって思えばあれは、そんなこんなにいちいち感情を呼び起こすのはもう煩わしいことでしかないといった海流の、ふとした瞬間に見せる、冷徹な眼差しであったのかもしれない……うん、きっとそうだったんだろう。やっぱあいつじじ臭かったよね、一介の男子高校生(手芸部)の割にはさ。でも当時のわたしにはそんなことは関係無かった。二人でいる時の海流がわたしだけを見てくれていれば、それでいいやって、もうそれだけで十分って、そんなことしか考えていなかった……。現在[イマ]のわたしだったらむしろ、彼のそんなギャップに、彼の美しさを引き立てるその陰影にこそ胸キュンしちゃってるところなんだけどね。むふふ。
「あんたまだ十八でしょ? 今からそんなこと言っててどうすんのさ。そんなんじゃ本当にじじになった頃には、もう小っさ過ぎて誰の目にも入らないような男になってるわよ」
「ん?……小っさかったらむしろ目に入りやすいんじゃね? 逆に(笑)」
「う、い、いまはそんな細かいことはどうでもいいの! そんなの屁理屈よ。わ、わたしが何を言いたいのかぐらいわかるでしょうよ(なんかちょっと悔しい)」
「う〜ん……なんとなく」
 なんかそういう時の海流はすごく子供っぽい感じがした。別に普段が大人っぽいってわけでもなかったんだけどさ。なんとなく小さい子が大人の顔色なんかを窺[ウカガ]ってる時に射す「陰」みたいなものが、そういう時の海流の表情にも認められる気がした。あっ、そうそう、「大人」と言えば、海流曰[イワ]く「『わたしってば大人の階段昇っちゃったかもぉ〜』とか言う時の、その大人という行き着く先や心象風景における階段などといった表象は、いずれも己[オノ]が低き小さきに端を発する幼気な幻想に過ぎないんだよ。本当の大人っていうのはさぁ、そんなことわかりきってるから黙して語らないもんなのさ」なんて大人ぶって言うもんだから、わたし「じゃあ、海流は大人じゃないんだね」って言ってやったんだっけ(笑) でも、わたしの知ってる海流は、そんなことを言うような時にこそ生き生きしてくるような奴だった。ああ、懐かしいな。ホントに。
「……何? やっぱお祖父ちゃんとお父さんのこととか関係あるの? それ。なんかそういう時のあんた、らしくないっていうかさ……」
「う〜ん……そうなのかなぁ、やっぱ」
「へぇ、自覚あるんだ?」
「そりゃね、こういう性格してますから、考えずにはいられないわけですよ」
「そっか、そうだよね……」
 海流のお祖父ちゃんは大学の先生、お父さんは漁師だった。海流は小学校の時にお祖母ちゃんを亡くして、中二の頃にはお母さんも亡くした。お母さんは事故だった。わたしは海流のお母さんの事についてはよく知らない。海流が話したがらなかったから。当時のわたしはそんなこと、聞きたいとも思わなかったし……。いずれにしても海流はそういう事情もあって、未だ多感な時期から残り二人となった男親の間で、それも些[イササ]か奇妙な関係であったというその親子の手によって、ひとり養われることになったのだった。
「あの二人はもうどうしようもないからねえ……」
「折り合いがつかないってこと?」
「うん、もはや二人の間を繋ぐのは血筋だけ……。ほんと、単に『血が繋がってる』だけ」
「ふ〜ん、そうなんだぁ……」
 海流のお祖父ちゃんは地元の国立大学の先生で、一応学部長とかにもなった歴とした教授だったらしい。「一応」って言うのは当時のわたしが海流から話を聞いた限りでは、いろいろと問題の多い人でもあったようであるからで、それまでのわたしが知っていた海流のお祖父ちゃんというのは、国や県の原子力行政に対して強硬な姿勢で反対をしているらしいちょっとコワそうだけどきっと立派なんだろうと思われる大学の先生だった。わたしは一度だけその海流のお祖父ちゃんの原子力行政を批判する講演の場に居合わせたことがある、ような気がしていた。というのも、それがいつだったのかも、そもそもどうしてわたしがその講演の場に行くことになったのかも、全然思い出せなくて、そんな本当かどうかも疑わしい、ひどく曖昧な記憶だったから。だけど海流のお祖父ちゃんの顔には確かに見覚えがあるような気がしたし、その講演を聴いたいつかのわたしが、「この人の言っていることが本当なら、どうして原子力発電を推進する人達がいるんだろう?」って思ったという記憶が、海流の話を聴いているうちに不意に頭をもたげてきたのだった。それで海流にその記憶のことについて話したら、「原発反対かどうかは知らないけど、祖父ちゃんみたいなナリした大学の教授なんていくらでもいるからさ。きっとオレの話に触発されて合成された虚偽[ニセ]の記憶だろ」とだけ。わたしもそれ以上自分で確かめようとはしなかったから、それきり真相は闇の中ってやつ。ん〜、本当のところはどうだったのかな? もはや確かめようもないんだけどさ……。ま、別にいっか。それでそんな講演も行っていたという海流のお祖父ちゃんなんだけど、実は原子力関係とかが専門なわけでは全然無くて、なんか本当は人文科学系の研究をしていた人なんだとか。詳細は忘れたけど。ん〜、何だったかな? でも一時期は本職の人よりも熱心に原子力問題について調べたりもしていて、なんか海流の話によると、お祖父ちゃんのそういうところが海流のお父さんとの関係を悪化させる一因にもなっていたらしい。気になったことは自分の専門以外でも何でもすぐに調べ出して、でもそこは本職が研究者なだけあって流石にちゃんと調べるから、そのうちにそうやって調べた事柄に関しては一家言[イッカゲン]を持つぐらいのレベルにまではなっていって、それで最終的には雑誌や新聞に寄稿したり時々テレビにも出演してコメントしたりして……って、ん? おお?……あっ! だからわたしお祖父ちゃんの顔に見覚えがあるような気がしたのかな? なんかテレビか何かで海流のお祖父ちゃんが講演してる……もしくはそれに類する映像を見たとか? あ〜ああ、有り得る有り得る……ていうか、もうそれでいいや、うん、もうそういうことにしておこうよ、その方がスッキリもするし、恐らく真相の方もそのようなところであったに違いない。うむ、これにて一件落着なり。キュピィンッ!(決めのポーズ)……で、そんなしっかりしてそうな海流のお祖父ちゃんなんだけど、一見大人しそうにも見えて実は静かに燃え立つような性格の激しさがあったらしくて、こと仕事のこととなると周囲との喧嘩も絶えなかったようで、そうしているうちに次第に学会(学界?)でも孤立しがちになり自分からもそういう繋がりを遠ざけるようになっていって、それからは極端に外部への露出を嫌い出すようになったとかでテレビなんかに出演することもなくなり、自分の研究室に閉じこもっていることが多くなっていったんだとか……でも、お祖父ちゃんは家族とかにもそういう事の次第を話して聞かせるタイプの人じゃなかったから、一体何があったのか詳しいところは誰にもわからないんだって海流は言ってた。そんな話を聴いていた時、わたしはたぶんいつかどこかで聞いたんだろう『百年の孤独』っていう言葉をぼんやりと思い浮かべてた。それが小説のタイトルだって知ったのは、わたしが東京に出てきてしばらく経ってからのことだった。その当時付き合っていた彼氏[カレ]が文学青年だったの。でもまあ、そのことはいいや。それから海流のお祖父ちゃんは、元々お酒好きな人ではあったんだけど、そんな風になってからは益々お酒を呑む量が増えていったらしくて、そうしているうちにだんだんと、時と場所も選ばずにお酒を呑むようになっていって、いつしかお祖父ちゃんが着ているブランド物のジャケットの内ポケットには、常に携帯用のウィスキーボトルが入っているようになっていたんだって。それで最終的には、大学で講義をしている最中にも、まるでお茶でも飲んでノドを潤すみたいにしてお酒を呑むのが当たり前になっちゃってて……でも、そんな海流のお祖父ちゃんの振る舞いを注意したりする人は、もうどこにも、家庭[ウチ]にも大学にも、いなかったんだって、海流のお祖母ちゃんやお母さんが、亡くなってからは……。
「祖父ちゃんはもはやただのアル中だし、親父は相変わらず海の男を気取っているし……」
「気取ってるの? わたし的には海流のお父さんこそ『ザ・海の男』って感じなんだけど」
「う〜ん……、きっとみんな……親父自身も含めて、そんな風に思ってるんじゃないかと思うんだけど……、オレや祖父ちゃん、それから死んだおかんや祖母ちゃん以外は……。でもそこが親父の凄いところだっつうか、厄介なところでもあるっていうか……」
「どういうこと? 本当はそういう人じゃないってこと?」
「うぅ〜ん……そうであろうとなかろうと、一度自分でそうと決めたら何が何でも押し通そうとするというか……なんというか……」
「男らしいじゃん」
「確かにそうなんだけど……そうとも言えるんだけどねえ……、なんか親父の場合は普通なら意識されないような根本的な選択をする自分すらも自分で決めちゃってて、そんで自分でそう決めたからそうしてるっていうかさ」
「う〜ん……わたしにはいまいちよくわかんないんだけどさ、多かれ少なかれ、みんなそうなんじゃないの? まぁ、個人差はあるだろうけど……」
「うん……そう、そうなんだけどさぁ……〈意識〉があるっていうのはまさにそういうことなんじゃないかと……まあ、オレは勝手にそう思ってるんだけどさぁ……、でもなんか親父の場合は……、ちょっと……ていうか、かなり? おかしいぐらいなんだよね。見てるこっちが落ち着かなくなるっていうか……」
「無理してる感じがするってこと?」
「う〜ん……というかね、なんかもう、とにかく『おかしい』の。なんかこう……もはやどこがどうって指摘するまでもないくらいに、なんかこう……根本的な……そう、それはきっと……もっとずっと根深い部分でさ、そこで既に何かが、なんかもう決定的に『おかしくなってる』って、なんかそういう感じがするんだよね……」
「……なんかコワいね」
「そう、まさにそんな感じ。見てるこっちが落ち着かなくなるっていうのは」
「昔からそういう人だったの?」
「……オレも昔、一度だけおかんに、そういう質問……したことあるんだよね。小五ぐらいの時だったかな、確か……、でもやっぱ考えてみたらおかしな話だよな、子供が自分の父親見ててさ、『お父さんって昔からああいう人だったの?』なんて問い質[タダ]すのは」
「……それで、お母さんは何て答えたの?」
「ん? ああ……、『わたしがあの人と知り合ったのは二十歳を過ぎてからだから、正直それまでのことはよく知らないんだけど……、でも……あの人はああいう人よ、きっとね。だからあなたも……、そう思っても、大丈夫よ。だってわたしは、あの人と結婚したのよ、あの人を選んで、あの人を受け入れもして、そうしてできたあなたを産んで、あの人がいたから、あの人がああいう人であったから、わたしは……、あなたのお母さんにもなれたのよ。……かいる、あなたはえらい子ね、これからもそうやって……、あなたも、お父さんのことをちゃんと見ててあげてね』って」
「……なんかすごいね(あんたの記憶力も)」
「うん、オレも……幼心[オサナゴコロ]にもそう思った。だからさ、おかんが死んじまった時は……、そりゃもう悲しかったね。もうどうしようもないくらいに落ち込んでさ、何でだよ! こんちくしょう! あんなだったおかんが昼間っから酒呑[ノ]んで酔っ払ってるような奴に車で轢[ヒ]かれて死ぬなんて、そんなの納得できねえよ!ってさ、でもさ……あんなおかんだったから、親父の方がきっと……オレよりも、もっと辛かったんじゃないかって……、おかんを送る時の準備なんかも、何彼[ナニカ]と気遣う周囲を横目に、全部自分で、率先してやってさ、そんで今でも忘れられないのが……、おかんの告別式の時に……おかんを轢いた奴が、選[ヨ]りにも選[ヨ]って手前[テメエ]の妻子を引き連れてノコノコとやって来やがってさ、オレほんとに……そんなの関係無しに……殺してやろうかと思ったよ、その辺にある傘でも何でも取ってさ、余っ程、刺し殺してやりたい!って、本気でそう思いながら、そいつを睨みつけてた……。そしたらさ、親父がすっとオレの横に立ってさ、何も言わずにじぃっとオレの眼を覗き込んでくるんだよ。あれは……オレを諫[イサ]めるっつうか……、たぶん親父はオレに何かを言いたかったわけじゃなくて、ただ……見せたかったんだと思う……、自分がどれほどの感情に堪[タ]えているのかっていうその眼を、その顔貌[カオ]を……、オレその瞬間のことを思い出すと……、未だに少しギョッとしちゃうんだけどさ、あれはもう……ほんとに……人でも獣でもなかったよ……、とにかくもう凄い眼をしてた……。でさ、オレは親父がそんなんだから……、そんな親父がいる限りは……、もう何にもできなくなっちゃってさ、そこからはもうずっと……、ただじっとして、しばしば親父のあの時の顔貌[カオ]も思い出しながら、ただ独り、やり場の無い感情の渦には流されまいと、必死で堪[コラ]えてた……。でね、親父のやつ言ったんだよ、焼香を済ませた……おかんを轢いた奴にさ、『お前、俺の女房に詫[ワ]びたのか? こんなことになって済まないと、ちゃんとそう詫びたのか?』って……」
 その辺りからちょっと、海流は泣いているみたいだった……。声が、顫[フル]えていたから……。
「親父言ったんだよ、『……そうか、詫びたのか。でもなあ、俺にはな、お前の肚[ハラ]の底までは……、どうやってもわからない。だからなあ、俺は信じるしかねえんだよ、お前がちゃんと女房に詫びたって、そう言ったお前の言葉を、俺は……それを信じるしかねえんだよ。わかるか? 俺の言っていることが。だから言うぞ、俺はお前に言うぞ! 俺はなあ、もう絶っ対にお前のことは許せない! この先何があっても、もうそれだけは無理だ! だってなあ……お前知ってるのかよぉ……、あれがどんな女だったか……ちきしょぉ……、いいか? だからなあ、俺は言うぞ、お前に言うぞ、俺はもうお前のことは絶対に許さない! いいか? だからもうそこは諦めてくれ、俺はお前を許さん! 絶対に。……だからお前にはもう、これ以上は何も望まん。金なんかもらっても……たとえ何されようが、俺の胸糞[ムナクソ]が悪くなるだけだ。……もういい、帰ってくれ、後は好きにしていい、酒を呑んでもいい、車を運転するのもいい、昼間っから呑むのも……それはお前の自由だ、俺はそれを認める、けどなあ、昼間っから酒呑んで酔っ払って、その上車まで運転するのは……、それだけは、もうやめにしてくんねえか、それ以外は何したっていい、今まで通りに……好き勝手やって生きたらいいさ、でもなあ、お前……いいか? 忘れるなよ、お前がそうやって俺の女房を車で轢いたんだってことを、その結果……俺の女房がああなっちまったんだってことを! いいか? お前は忘れるなよ! この先何があっても、たとえ俺がお前のことは忘れても、お前は絶っ対に忘れるんじゃねえぞ! いいか? お前は忘れるなよ!……もうわかったんなら、とっとと失せろ!』ってさ……」
 海流はところどころで啜[スス]り上げるようになりながらも、そこまでを話し終えてしまうと、少し黙った。わたしは海流が、それをまるで自分が言われたみたいにして、一言一句違[タガ]わずに覚えているようなのをまた、聴きながらに驚いていたんだけど、それ以上に、そのことについて思い出している時の海流が、とても辛そうで、それは聴いているだけのわたしでも、辛くなってきちゃうような話だったから……、でもわたしは、海流がそれを話し続けようとする限りは聴かなきゃいけないって、わたしがそれを途中で止めるような真似は絶対にしちゃいけないって、何故だかそう思って、じっと海流が語り終えるのを待っていたの。わたしも時に、痛みを感じながら……でも、わたしの痛みと海流の感じている痛みとでは、きっと違うんだろうなって、そしてそれは、決して比べたり、確かめたりすることもできないんだろうなって、なんとなく、そんなことも考えていた。そう、あの時は潮風が、目には見えない傷口に、凍[シ]みるようだった……。
「……でね、そのおかんを車で轢いちゃった人なんだけどね、オレがちょうど高校に入るぐらいの頃に……首吊って死んじゃったんだ。それでさ、遺[ノコ]された家族も、みんな、何処かへ引っ越したんだって。……親父が殺したんだよ」
 わたしはもう、何て言っていいのかわからなかった……。ただこう……、外の世界はこんなにも、いつもと変わらずに穏やか(そう、まだあの時は……だけど)なのに、どうしてこのわたしたちの心の中ってやつでは、こんなことが起こっているんだろうって、ああ、そっか、こんなことを考えてしまえるからダメなんだって、「そこにある」、「それはある」って言えるものからは、わたしたちはもうどうしようもなく切り離されちゃってて、またその切り離されちゃってるっていうそのこと自体からも、もう避け難く切り離されちゃっているから、それはもう本当に別々で、その他のものとの間に生じちゃう隙間みたいなところに、このどうしようもなく何かを否定したり、本当には無いものまでをもまるであるかのようにもできてしまう「言葉」っていうやつが入り込んでくるような余地もまた生まれてきたのかなって、いや、でもそれはちょっと違うのかなって、それはもうこの「言葉」っていうやつが既にあったからそうなのかなって、きっとこの「言葉」っていうやつが何よりもまず先にあって、それがあるから、そんなものがあることによって、「わたし」とかそういうものも全部、こうした一切が、続々と生じてくるようになっちゃったのかなって、でもこの「言葉」っていうやつが一体いつどこからやってきて、どうしてそんなものがあって、どうしてこんなものがあるようになって、それでどうして「わたしたち《だけ》」が、それを用いるように……いえ、用いらざるを得なくなるようなことにまでなってしまったのかって、でもそんなことはきっと、わたしたちがこんな風にして「言葉」を使って考えている限りは、わからないことなんだろうって、だってわたしたちがこの「言葉」っていうやつを用いて考えるしかないのなら、たとえば、そもそもこの「言葉」っていうやつがあるようになる前はどうだったの?っていうような、そんな他でもないこの「言葉」っていうやつをもってしても、もうどうにも、どうすることもできないような事態に直面しちゃったとしたら、きっとそれが誰でも、本当に、もう何にも言えなくなっちゃうから……、そう、あの時みたいに……、そうでなきゃ、適当な嘘を吐[ツ]いたり、ありもしないデタラメを言ってみせるより他に仕方がないのだもの……。当時のわたしも、まだ「考える」というほどではないにしろ、ただただ漠然としてではあるけれど、きっと同じ様なことをなんとなく、それは本当になんとなく、「感じて」いたんだろうなって、現在[イマ]になってわたしは思うの、それもまたなんとなくではあるんだけれど……。でもこの「なんとなく」をそんな「なんとなく」のまま終わらせてしまったのならそこまでだけど、この「なんとなく」をそんなただの「なんとなく」には終わらせまいとして何かしらの抵抗をしてみせようとするまさにそのことこそが肝要[キモ]なんじゃないかって、なんかそんな如何にもありがちな、きっとどこかの誰かに「これぞ成功する秘訣です!」とかなんとか言って大仰に然[サ]もありなんとして誇称されてしまっていたりなんかもしていそうな、そんな当たり前過ぎるようなこともたまにはまた、なんとなくなんとなく、こんな風にもまた、考えてもみたりなんかして。そう、時にはまた、流れるまま、流されるままに……。
「『はじめにことばがあり、ことばは神のところにあり、ことばは神であった』だっけ?」
「おお、どうした急に? 啓示でも受けたのか?」
「ん?……ふふっ、そうかもね(笑)」
「ははっ、そっか(笑) それじゃあ、その経験を大切にして……、日々精進していかないとね。それが単なる……独り善がりの妄想で終わってしまわないように……」
「ん? ん〜……うん、そうしよっかな」
「……そうすれば、きっと……そうする人が一人でも多ければ、きっと……こんな世の中だけどさ、きっと……また善くなるさ、きっとね」
「……うん、なんかそんな気がしてきた(笑)」
「ほら、オレらお互いに妄想族だから(笑)」
「はは、わいちゃうもんねぇ〜」
「もう、どんどん湧いちゃうからねぇ〜」
「ははっ……」
「ふふ……」
「ね、ホント、そんな風になったらいいね……」
「……時間大丈夫なの?」
「えっ? ああ……うん、大丈夫。ほら、もうこんな時期だしさ(笑) だいじでしょ」
「ん? だいじ?」
「ふふっ、栃木出身の子に教わったの。栃木弁で『大丈夫』って意味なんだって。ふふ、なんかいいでしょ?(笑)」
「うん、なんか気に入った(笑) 『だいじ』か……うん、もう意味わかるから、使ってもだいじ、だいじだいじ(笑)」
「うん、だいじだいじ(笑)」
 本当は時間なんか大丈夫じゃなくても、海流とずっとそうしていたかった……。こんな時には「このまま時間が止まればいいのに……」なんてセリフをのたまうのが年頃の女の子としては可愛げがあってよかったのかもしれないけど、当時のわたしはというと、「時間なんて止まっちゃったら、死んじゃってるのと同じことなんじゃないの? それって要するにさ、『自分にとっては都合の良い瞬間なり時間なりが、このままずっと終わらずに続けばいいのに……』っていうことなんじゃないの? あと他のことはどうでもいいやって。なんかそんな自分勝手な物言いに聞こえて、わたしはイヤだな。『時間』ってさ、自分一人だけのものじゃないんだからさ」なんて屁理屈を言ったりしてました(苦笑) はは……うん、これはきっと海流のやつから受けた悪影響のせいに違いない。そうだ、そうに決まってる! あんにゃろめ。「わたし」を形作りおってからに……。
「……キリスト教のキリストって『油を注がれた者』って意味なんだって」
「え? どしたの? 急に……」
「いや、そっちが先に言い出したんだろ。『はじめにことばがあり……』って」
「あっ、そっか。あれ聖書の言葉なんだっけ? すっかり忘れてたよ(苦笑)」
「はは、ちさとらしいや。まっ、オレも似たようなもんか……」
「で、何さ?」
「うん? ああ……あぁ、でもやっぱいいや、ほら、またお得意の誇大妄想だから……」
「何それ? あんた自分の彼女と話してるんだから、別に誇大妄想がどうたらとか関係無いじゃん。話したいなら好きなこと話したらいいのよ。わたしだって……あんたの話、聴きたいんだしさ」
「ん〜、そっかぁ……」
「あっ……(やだ、わたしってば自分でそんな……ドキドキ。)」
「ん? どした?」
「ん〜ん、別に、なんでもない……ぷいっ(赤面)」
「ふ〜ん、そ……。でさ、オレやっぱ、うちで話す相手となると祖父ちゃんだけだろ?親父のやつはもう盆と正月ぐらいにしか帰って来ないし……」
「え? そうなの? 何で? 年中漁に出てるわけじゃないでしょ?」
「本人は漁閑期[ギョカンキ]の出稼ぎだって言い張ってるんだけど……、なんかあいつ他にも住居[スマイ]があるっぽいんだよねぇ。さすがに持ち家ではないと思うんだけど……、たぶんアパートとか借りてさあ、あいつ何気に稼いでやがるし」
「海流のお父さん漁協の人たちとかの間じゃ、ちょっとした有名人だもんね。なんか名物船長みたいな(笑) わたしあの『高見丸』って名前、けっこう好きよ」
「そう? ただ名字に丸つけただけじゃん(笑)」
「なんかわかりやすいし、字面[ジヅラ]もスッキリしててさ」
「ふ〜ん、人それぞれってわけね……。まあ、オレは親父の仕事関係のこととかは全然知らないし、あいつ男やもめになってからはもう、とにかく家には寄りつかなくなったからさぁ……、全く何処で何してるんだか……まあ、オレは別にいいんだけどね、いたらいたでうるせえしさ……」
「そっか、やっぱりさみしいんだね……そうだよね」
「おおい、ちゃんと人の話聞いてたか?」
「うん、聴いてた。ちゃんと、聴いてるよ」
「う、う〜む……、まあいいや」
そう言って海流は、午前の薄日[ウスビ]に燃える沖合の方に目を上げたんだけれど、その時の海流の横顔は、やっぱりちょっと、寂しげに翳[カゲ]っているように見えた……。
「ねえ、あんたのお父さんが家[ウチ]に帰って来ないのって、やっぱりお祖父ちゃんのことが関係あるの?」
「つうか、それだけだね、理由は。たぶんいつか祖父ちゃんがぽっくり逝っちまったら、何食わぬ顔して戻って来やがるんじゃねえかな。将来的には水産加工業の方に乗り換えるつもりだとかなんとか抜かしていやがったこともあったし、それにあいつ何だかんだ言っても地元が好きだからさ」
「ふ〜ん……、それなら早く、戻って来たらいいのにね」
「ふん、どうだか。その頃にはオレがいなくなってるかもしんないしな」
「えっ? 地元出る気あんの? ていうか、卒業してからどうすんのか決めたの? あんた結局一コも受けなかったんでしょ?」
「うん、そう。とりあえず今回は進学しないことにした。大学なんて幾つになってからでも行けるもんだしさ」
「まあ、そりゃそうだけどさぁ……」
「それに祖父ちゃんがあんな常態だからさ、いつどうなるかわかんないし、親父のやつが帰って来ない限りはオレしかいないから、その間はちょっとね……、地元の大学には行く気しないしさ。ちさとは東京だっけ? ××大だろ? さすがだね」
「いや、別にそうでもないっしょ」
「オレの成績から言ったらそうさ」
「……ねえ、以前[マエ]から聴こうと思ってたんだけど、あんた一体何になりたいの?」
「ん?……ちさとは? 何になりたいの?」
「む……、わたしはまだわかんないから、大学行ってそれを考えるの! で? あんたは?」
「ふふ、オレはねえ……哲楽者か猫仙人」
「ふ〜ん、そっかぁ、やっぱ哲学者かぁ……」
「おい、猫仙人はスルーかよ!」
「そんなしょうもないボケにはいちいち付き合ってらんないわよ」
「割と本気なのに……。それに哲学者じゃなくて『哲楽者』だかんね。楽しんじゃう方」
「何よそれ? またしょうもないことを……」
「そう? 強[アナガ]ちそうとも言えないかもしんないよ? ほら、オレはやっぱ学者向きの性格じゃあないからさ、それに〈知〉のあり方っていうのは、〈学知〉ばかりでなし、もっといろいろあっても、というか、もっといろいろあった方がいいと思うんだよね。だからさ」
「そういう難しい話キライ。ていうか、それこそなんか誇大妄想的な話なんじゃないの? わたしにはよくわかんないんだけどさ、なんとなく」
「はは、確かに。そういうとこは親父に似たんだな。手先の器用さはおかんに似たし」
「お父さんもそういう感じなの?」
「『も』じゃねえよ、オレは親父なんかに比べたらかわいいもんさ。オレは単に自分の頭ん中でああでもないこうでもないって好き勝手なこと考えて楽しんでるだけなんだからさ。別に誰に迷惑かけてるでもなし。話す相手なんてお前ぐらいのもんだしさ」
「じゃあ、わたしに迷惑かけてんじゃん」
「……じゃ、やめた。もうおしまい」
「……ガキ」
「あ? どっちが?(ちょいイラッ)」
「……。で? お父さんがどうしたの?(何食わぬ顔)」
「……ったく、親父はああ見えて大学院まで行っててさ、修士課程までだったかな? 確か。△△大でさ、祖父ちゃんと似たような研究してたんだよ」
「え? そうなの? マジで? すげぇ……」
「意外?(笑) んで、ほら、祖父ちゃんは最終的には○○大でさ」
「ま、まあ……それはわかるけど……」
「あっ、それから祖母ちゃんは□□大出身」
「あわあわ……あ、あんたんちって学歴が、ご、ご立派でござぁやすのねぇ〜(裏返る声)」
「な? オレばっちり落ちこぼれてるって感じだろ?(笑)」
「……ちったあ勉強したのかよ、お前。ノートのコピーは渡してたはずだけど?」
「うん、ありがとう。お蔭様でなんとか無事卒業できそうでござぁますのよ?」
「……ふん、別にそんなことはどうでもいいんだけどさ」
「ふふ、ありがとな、助かったのは本当だよ。オレには学校の勉強は難し過ぎるからさ」
「そうなの?」
「うん、本当。オレニハ難シ過ギテ頭イタクナッチャウノ。それに……どうしてもできるようになりたいとも思えなくてさ。そしたら本当にできないままだったアルヨ、ハハハ」
「ふ〜ん……、そっか」
「うん、そうだ。……でもね、オレがこんな落ちこぼれでも親父とかに対して引け目を感じなくて済んだのはさ、きっとおかんがああいう人だったからだと思うんだ」
「どういうこと? お母さんはどこだったの?」
「おかんはね、高卒。大学行ってないの。卒業してからは実家の酒屋手伝っててさ」
「へぇ〜、そうなんだぁ」
「でもさ、うちで一番賢かったのはおかんだったよ、間違いなく。みんなそう思ってたと思う。……何て言うか、『人間』っていう生き物のあり方として間違っていなかったっていうかさ。なんか、そういう感じのする人だったよ……」
「(よくわかってない、けどなんか聞きにくい)……お祖母ちゃんはどうだったの?」
「祖母ちゃんはもうさ、常に祖父ちゃんの後ろを三歩も四歩も下がって歩くような人でさ、自分の趣味だったお茶(茶道)の時間以外は全部、家のこととか祖父ちゃんの身の回りの世話とか、あと婦人会? だったかな? なんかそんな感じだったよ。……でさ、祖母ちゃんは最期の方はちょっと……ボケちゃっててさ、おかんが定期的に祖母ちゃんに電話したりすることで実家との関係を取り持っていたらしいんだけど、それで祖母ちゃんの異変にも気がついて……、それで一緒に暮らすようになったんだよ」
「そっか、そうだったんだ……それで?お父さんの方は?」
「ああ、そうだったっけ……、親父はさ、あんな感じだけど……ほら、パワーは尋常じゃないっつうかさ、ちょっと普通じゃないっていうのは、そういうところも含めてのことでさ、熱心に研究してた頃も、周囲から一目置かれるっていうか、人一倍目立つっていうか、そういう存在だったみたい」
「なんかわかる気がする」
「んでさ、ああいう性格だから、研究の方でもちょっと……強引に過ぎるぐらいに物を言い切るようなところがあったらしく、それもオレオレ感全開で……まあ、酔っ払った祖父ちゃんから聞いた話なんだけどね。親父にはとてもそんなこと聞けないし……」
「どうして?」
「いやね、親父が研究やめて漁師になったのは祖父ちゃんが原因らしくてさ……、まあ、祖父ちゃんが言うには、祖父ちゃんがそうしなくても遅かれ早かれそうなる運命だったんだって、そう言ってたけど……」
「どういうこと? わかんない」
「う〜んとね、まあ、こんなことをいつまでも長々と話してもあれだから……、端的に言うとだな、親父の修士論文……まあ、卒業論文みたいなのを祖父ちゃんがバッサリ切って捨てたんだよ、なんか親父のいた研究室の先生が祖父ちゃんの昔からの知り合いだったらしくてさ、んで、親父の書いた論文がちょっといろいろと問題も多かったとかで……、でもなんか相手によっては、その親父特有のパワーに押されちゃってなんとなく煙に巻かれちゃう……っていうなんかそういう内容だったらしい、オレは読んでないから確かめようもないんだけどさ……、親父は研究やめると同時にその時代のものは全部処分しちゃったらしいし、祖父ちゃんはあんなものは手元に残しとく価値も無いって……」
「ふ〜ん……」
「んでさ、その……親父はああ見えて繊細なやつだから……ぐうの音[ネ]も出ないぐらいに叩かれて、立ち直れなかったらしい……」
「え? そうなの? なんかイメージと違う」
「そりゃさ……本当は人間なんて単純にこうだって言い切れるようなもんじゃないよ。あいつはこういう奴だからとかなんとかってさ。考えてもみろよ、現にオレやお前だってそうだろ? お互いにわかり合ってるような気になってるだけで、本当は自分で自分のことさえも……本当は、何一つわかってなんかいないんじゃないかって……そう思う時がある」
 その時、当時のわたしは「何でそんな寂しいこと言うの?」って思ってた。なんか急にどうしようもなく突き放されてしまったような気がして……。そんなこと言わないでさ、嘘でもいいからさ……って、そう、やっぱりそうなんだよね、そりゃ単純に「嘘」っていうのとは違うような気もするけどさ……、本当はお互いにそう「言って」、そう「言う」ことにしておこうよって、本当は、そんな風にしてお互いを労[イタワ]り合ってるだけなんじゃないかって……わたしも、そう思う時がある。
「それに……親父からしてみたら、きっと……いや、これはオレの推測に過ぎないんだけどさ、たぶん親父は祖父ちゃんが『わざわざ』口を出してきたって、きっと、そう思ってるんじゃないかって……、もしそれが祖父ちゃん以外の奴だったとしたら、そこまで追い込まれたりしなかったんじゃないかって……なんかそんな気がする。オレだってさ……」
 現在[イマ]になってわたしは思う、あの時、海流の中には二人の、それも相異なる「父親」が二人も……、なんか変な言い方だけど、あの時の海流の中ではきっと、二人の「父親」が「機能」していたって、なんかそんな気がする。もっとも、これもわたしの推測に過ぎないのだけれど……。
「そっか、それでか……」
「うん……でさ、オレは思うんだけどさ、そりゃ確かに親父の方にも問題はあったんだろうけどさ……、祖父ちゃんだって……、祖父ちゃんに言わせればきっと、わたしは一介の学者としてやるべきことをやったまでだ、とかそういう言い方をするんだろうけど、なんていうかさ、祖父ちゃんは確かに仕事の『方は』きっちりとやったんだと思うんだよ、でもさ、オレ思うんだよね、ひょっとしたら祖父ちゃんはそっち『しか』ちゃんとやらなかったんじゃないかって、祖父ちゃんが仕事と同じくらい親父とちゃんと向き合ってて、それは別に過保護にするとかそういう意味じゃなくてさ、せめて自分の息子がどういう奴なのかってことぐらいを少しでも理解してれば……、だってさ、一緒に住んでりゃ毎日のように顔合わせる時期だってあるわけで、別にたいしたことじゃなくても、一言二言でもさ、話すことぐらいはさ、できるでしょ? そうしようと思えば……。んで、ああ、あいつ今日は機嫌が悪いな、とか、なんかいつもと違うな、とか、少しは成長したな、とか……」
「……きっと、海流はそうして欲しかったんだね。でもそれは、どっちかって言うと……お母さんの役目って感じが……、あっ……ご、ごめん……ホントに、ごめん……」
「……いいよ、別に。きっとそうなんだろうし……。でもさ、オレ時々思うんだよ、本当は〈父〉や〈母〉としての役割に男か女かなんて関係無いんじゃないかって……。そりゃさ、男には子供なんて産めないわけだし身体も全然違うし……、決して同じようにはできないっていうのはわかるんだけどさ、でもそうせざるを得ない環境の中でも子供がちゃんと育った例なんていくらでもあるわけだし、ほら、なんていうか……、『親は無くとも子は育つ』って言うだろ? 確かにそうなのかもしれないけどさ……、オレ思ったんだよ、人の子がこのような社会で『人間』として生きていくためには、たとい親は失[ナ]くとも、何らかの形での〈父〉や〈母〉は必要なんじゃないかって……逆に言えば、そこさえしっかりとしていれば……そうであれば、〈父〉や〈母〉としての役割を担い切れないような男女がわざわざ親として子供を養うくらいなら……或いは……」
「え? 何言ってんの? わたし……わかんない……。ねえ、あんた……、大丈夫?」
 わたしは思う、海流に本当の意味での「父親」はいたのだろうかと。わたしの思い違いかもしれないし、そうであって欲しいような気もするんだけど……、ひょっとして海流にはあの二人の「男の親」しかいなかったんじゃないかって。それも二人の間にはあんなことがあったから、既に一方の男親がもう一方の男親にすっかり「息子」として追い落とされてしまっていて、その後もその影響のせいで海流のお父さんは本当の意味での海流の「父親」としてはいられないようなことにまでなってしまっていて……、それでもう一方の男親の方はと言うと、つまり「海流の父親としてあるべきはずであった男親の父親」としてはあったんだけど、それは決して海流の「父親」ではなかったわけで……、ちゃんとした「母親」としてあれたであろうお母さんは不幸にも亡くなってしまっていて……ああ、わたし、何を言ってるんだろう、なんかわかんなくなってきた……そもそも「父親」って? 「母親」って? 海流は、海流なら……何て言ったんだっけ……。
「……は言う、〈父〉とは〈掟〉であり〈法〉であり、〈母〉とは〈理〉であると……。天上よりあれと言い給ふ〈父〉と〈母〉なると称されし海や大地……。おお、〈父〉はいずこへ……〈母〉はあるのか? 汝[ナンヂ]、天上の〈父〉を知るに能[アタ]はず……汝、〈父〉の言[ゲン]に言い付かる者よ、汝、疑うことなかれ……汝、決して試みてはならぬ……〈母〉はどうだ?……汝、〈理〉を解[ト]け、汝、汝自身を知れ、〈理〉とは事割りであり、それは即ち『断り』であると……汝、〈理〉より分かたれし者……汝、〈理〉を拒絶せし者よ……汝、汝自身を知れ……そうか、知ってるか? 〈宗教〉の『宗』って『根本』とか『おおもと』っていう意味を持つ漢字なんだよ、この国じゃ〈宗教〉っていうと全てその漢字を用いてる……そもそもどうしてそんなことを教わらなければわからないんだ? それは……もはや如何ともし難く切り離されてしまっているから……、気がついた時にはもう分け隔てられてしまっているから……、もはや『ある』時にはもう……そうか……だから言う、わたしは言う、〈意識〉とは抵抗であると。われわれはもはや、水の中の水のようにはいられなくなり……そして、水の中の油の如くあるようになり……、油を注がれた者……その教えを請うて……、流れに逆らうように……われわれもまた流体中の物体としてあり……、抵抗を感じ、抵抗を受け、抵抗せよと促しもし、他でもない抵抗を、ありとあらゆるものに抵抗を……既に……今も、常に……、抵抗を……抵抗をし続けて……いる。そう、故に〈意識〉とは抵抗である。またそうであれば、そうであるからこそ、〈意識〉が高まれば昂[タカマ]るほど……〈意識〉こそが抵抗であるのなら……そうか、だからか……人の子が『道理』だの『真理』だのっていう言い方をするのは、〈理〉より分かたれ分からなくなった人の子が……、言ってしまえば、『既に〈理〉より分かたれてしまっている』という〈理〉でもあるわけだ、故に人の子はその〈理〉をすら拒絶してみせる、〈意識〉あっての人の子であり、そもそも〈意識〉とは抵抗であるから……。そうか、故に〈母〉とはそのような人の子をすら受け容[イ]れかつ包み込みもするような〈理〉としてあるべきで、〈父〉とはそのような人の子の抵抗をさえも許さじ戒めんとする〈掟〉、〈法〉としてあるべきで……そうか、そういう意味ではおかんも祖父ちゃんも……、しかし〈父〉としての役割が後の子に引き継がれもし得るようにしなければならないとすれば、やはり……祖父ちゃんが親父にしたことは……親父はそれに抵抗して……抵抗し続けているっていうのか? 『抵抗の仕方』にもいろいろある、か……」
 わたしは正直、海流が何を言いたかったのかなんてよくわからなかったけど、ただなんとなく、そこまでしなきゃならないのは悲しいことだなって思ってた。だって、自分が自分でなくなっちゃうみたいにまでなって、ちょっと普通じゃない状態になってまで、何かについて必死になって考えていて、あいつは自分で楽しんでやっているなんて言っていたけど、わたしにはとても、悩み苦しんでいるようにしか見えなかったから……。確かめようのないことばかりで、相談できる相手もいなくて、誰も教えてくれなくて……、それで海流はまるで啓示でも受けたみたいにして、そう、ああいうのをやっぱり「神がかり」って言ったりするんだろうかって、でもあれは……「神さま」っていうより……、そう、やっぱりはじめに「言葉」があって……ということなのであれば、「言葉」はきっと「神さま」にも等しいはずで、わたしは一口に「神さま」って言っても、いろいろとありそうなものだとは思うんだけれど、でもきっと「神さま」は「言葉」でもあって、それだからきっと「『神さま』の『言葉』」っていうのは「『言葉』の『言葉』」でもあるわけで、そうなると「言葉」で言える限りのことは何でも言えるようにもなっちゃうのかなって……、そういう風に考えるとああいう時の海流はきっと、自分が何者であるのかとかそういうことをもうとにかく全部度外視して、ただ言葉を……そう、言葉で言葉を……それは言葉の言葉を言葉でも言うような……そんな状態にまで自分を持っていって、それで自分の知り得る限りの言葉を用いて、それに堪[タ]え得るような人格[ヒト]にまでなったみたいにして、あんな風に語り出してもみせていたのかなって……。そう、あれは海流にとって、もはや事実であるかどうかを確かめたりすることが困難になっているような物事について、それでもなんとか考えるための、一つの「方法」であったのかもしれないって、そんな気がして、でも本当のところがどうであったのかについては、直接海流に確かめることはもうできないから、わたしはきっとそういうことだったんじゃなかろうかと、とりあえずはそう思うことにしている。現在[イマ]のところは……。
「……んで何? もういいの? わかったの?」
「ん〜? ああ……、とりあえずはそう思ってても問題無いのかなぁって」
「はあ? 何それ? あんたそれでいいの?」
「ん? まあ……、これ以上はいくら考えても、どうせ今すぐには確かめらんないし、自分の中ではちったあ整理できてきた気もするし……、それに間違ってたらまた考え直すしさ」
「結局あんた何について考えてたの? 何が言いたかったの? わたしにはよくわかんない」
「そりゃさ、このような人の子とは一体どういうもので、どうあるべきかってことさ」
「ふうん、そ……」
「うん、きっとそう」
 その時、潮の香る微風がわたしの嗅覚をツンとして、それでわたしは自分が海流と二人で午前中の渚を眺めながら防波堤の上に並んで腰掛けているのだということを思い出した。
「うぅ寒っ……ていうか、もうそろそろ限界かも(プルプル)」
「うん……オレも今そう思テタヨ(ブルブル)」
「なんか今日は一杯話したね。いつにもまして……」
「……うん、今まで話しにくかったこととかも、少しは話せたような気がする」
「もうすぐお別れだからかな……」
「……東京なんてすぐだろ」
「うん、そうだよね……」
「あっ、お前あの日を楽しみにしていろよ。目下制作中だからさ」
「ん?」
 わたしはその時、海流が何のことを言っているのかさっぱりわからなかったけど、なんとなく、そのままにしておいてしまった。また今度聞けばいっかって……。
「……じゃ、わたしそろそろ、ゆっことかと約束あるからさ」
「あっ、そうだ。今日うち来ない? 祖父ちゃん出張でいないんだよね。泊まってけよ」
「……そうもいかないのよね、お父さんがうるさいから。お母さんの方はなんかあんたのこと気に入ってるみたいなんだけど」
「やっぱオレはおかんの方が好きだな(笑) 父親はどうもね……」
「お父さんだっていろいろと大変なのよ」
「……うん、そう思うよ」
「じゃ、わたし行くね」
「……オレさ」
「ん? 何?」
「卒業したら、小説でも書こうかと思っててさ、バイトでもしながら」
「ふ〜ん、そうなんだ……。いんじゃない? あんたが言う『小説』って、わたしにはよくわかんないと思うけど」
「別にそんなこたあないでしょ。……わたしは言う、〈小説〉とは小さきものから説いてもよいということの一つの顕れであると」
「……そういうことは書いてから言えよ」
「了解」
「んじゃ、ま、とりあえず楽しみが一つ増えたということにしておくわ」
「おう、期待せずに待っててくれい」
「……楽しみにしとくよ」
「へい」
「じゃ、今度こそ……さよなら」
「……また逢う日まで


 ――そう、そしてその後の現実っていうやつは小説よりも……。

月に枝豆、危機に猫。(一匹目)

 枝豆。 ん? 枝豆だよ。 あ? そこにあんだろ。 いや、そうじゃなくてさ。小説、書くことにしたんだよ、『枝豆』っていうさ、習作、なんだけどね。 秀作? あっ、醤油取って。
 先刻、学生と思[オボ]しき女店員の導き手により我らが卓上にやって来た二八〇円(税込)の湯煎済み枝豆様ご一行は、如何にも未だ十分には氷結解[ホド]けやらぬといった按配で、恐らくは電子レンジでチンもされずにちんまりと、その上この上も無く無造作に、ともすればそこら近所の百均辺りで見かけて思わず二度見してしまいそうな、それはもう大層慎ましやかにするようにと意匠を凝らされ、それはもう夥しい数を生産されたであろうとても簡素で物の哀れな小鉢のうちの一つに、一山然[ヒトヤマゼン]としてくっきりと盛られていなさる。仕方なしにパクッと一口つまんでみるも、やっぱひゃっこくて味がしねえ、水っぽくて塩気も足りない、その上どの粒も小振り、というよりか痩せっぽっちで平べったく、こちらの期待したあの豆々しい食感が一個もない、要するに喰えたものではない。それに何だかそのけばけばしいまでの緑々[リョクリョク]しさを認めるにつけ、あんなにも煽情的で旺盛だった私の枝豆に対する欲求は、見る間に萎[シボ]んで見る影もなくなっていく始末で、一体何の因果でか、いままさにわれわれの目の前に降[クダ]されているその緑の亡骸[ナキガラ]の一群から音も無く、一足飛びに、遠のいていってしまった。余りにも無残な、本日の枝豆。これで二八〇円(税込)か、少し前なら煙草が買えたな。それがいまや某少年漫画の単行本一冊に相当する価格とは。時代の流れというか、全く、物の価値とは一体何ぞ? 結局はそれを定める人間次第なんじゃ、しかし現実はそんなに素朴で単純なものではあるまい。とかく人間というのはややこしいものであるし、それが世間ということになれば尚の事。それに依然として自然の問題もあるしな。こやつも以前ほどには気安く煙草をくれなくなるのだろうか。そりゃ私としてももらいにくくなるわな、全く、世知辛くなっていくばかりの、世の中、そしてどうやらそんな中で慎ましく、どうにかこうにか生きていくしかなさそうな、わたし、と言ふいと小さきむじな一匹、もはや満足に穴を掘ることも能[アタ]はず、か。まあ、私はアナグマじゃないがね。別にこれといった行き場を持たないだけの、己[オノレ]や他人を卑下することには長[タ]けている、そんなしがない人の子か。
 んで、何? 就活がどうしたって? 就活じゃねえよ、習作だよ。 秀作? まだ書いてもいないくせに? そっちのじゃなくてさ、練習の方の、習作。 ふうん、あっそ。で?
 で?ってねぇ……と余りにもつれないこちら側の返答に、もはや取りつく島など無いに等しいというのを見て取ったのか、目の前にいる自称物書き志望の三十路[ミソジ]一歩手前、或いは、実は機を見るに敏なる小説家先生の卵だったらしい十数年来腐らぬ縁の我が謎めいた親友(道産子♂)は、何やら急に泳ぎだした視線の跡を追うようにしながら、利き手(右手)に取ったおしぼりで茶色い居酒屋の十七番卓をせっせと拭きはじめたのだった。ふきふき、ふきふき、と。しばし視線は定まらず、落ち着きも無く、どうやら居た堪れなくなってしまったらしい。可哀相に。そのうちに視線の方は何処[ドコ]かふきふきしている手元の一点に落ち着いたかのように見えたが、目に入ってはいても何も見ていないような眼の色をしたまま、またふきふき、たぶん継ぎ足す言葉が見当たらなくてふきふき、いつまで経ってもふきふき、しているのだなふきふき。まあ、いつも通りだということだ。安心した。ふきふき。こいつは酒が入って間が持たなくなると、決まって俺に煙草をねだるかおしぼりでふきふきするかしやがるからな。どうせまた煙草が値上がりしたんでくれとは言えなくなって、いつもより余計にふきふきしていやがるんだろう。ふっ、相変わらずの小心者め。ほんとこいつは昔っからそういう小っさいこととか細けえところを必要以上に気にするところがあるからな。その癖時折とんでもないことをしでかしやがるし。高校の時なんて、ぷぷっ、俺らの学校で、ぷぷっ、あんなだったのなんて、ぷぷっ、こいつだけだし、ぷぷっ、その上教師に盾突いてあんなことまで……ぷぷっ、絶対退学になると思ったんだけどなぁ、学校に親まで呼ばれてまあ、ぷぷっ、若気の至り、とはいえ、ぷぷっ、この事実は俺が生きている限り決して忘れまい、そして何かことあるごとに必ずや物笑いの種にしてくれよう、ぷぷっ。ん? どうしたんだい? 煙草が欲しいのかい? 物欲しそうな眼をしやがって。ほれ、どうした、くれと、下さいと言ってみろ、どうかあなた様のセブンスターをこの貧しくて憐れなわたくしめにどうぞ一本分けておくんなましとよぉ、そしたらまた脆くも欲望に負けてしまったお前さんをにべもなく拒否ってやるんだからさぁ、そりゃおいそれとはくれてやれないねぇ、ここんとこ俺だって景気悪いしさ、ほんと、悪くなっていくばかりでさ、正直きついわけよ、そりゃね、いくら旧[フル]い付き合いのダチが相手だからって、いや、そんな長い付き合いのダチが相手だからこそ、か、そんな時ぐらいはいい顔ばっかりもしていられなくなるんだわ、ほんとに、辛いのよ、みんなのヒーロー企業戦士サラリーマンってやつのお勤めはさ、要するにねぇ、世間ってのはそんなに甘くないわけよ、風当たりがとぉっても強いの、だからに、君のように自称何ちゃら志望とか何ちゃらの卵とか言っちゃって自由人気取りの輩[ヤカラ]はごまんといるわけだけど、そんなんがどうにかなるのなんて才能に恵まれたほんの一握りの連中だけで宝くじに当たるようなもんだし、所詮俺らなんて淡い夢見て地方からノコノコと出て来ちゃった元々が田舎者のパンピーに過ぎないんだからさ、陸[ロク]に根づく会社[ヤシロ]も持たないでいちゃあ、何かの拍子にちょぉっと強い風が吹いただけで、ぴゅぅ〜ってなもんで吹き飛ばされて、はい! さようならぁ!ってなもんでおしまいよ。ほんとに。俺らみたいな不信心な輩には神も仏も、ましてや天国や地獄だって無いんだからさぁ。なんて意地悪も言いたくなっちゃうわけよ、おじさんは。だってさあ、考えてもみろ、もう二十八だぜ? おっさんだぜ? 勘弁してくれよ、お前なんてもうすぐ二十九だろ? 三十路だぜ? そんなおっさんがなに諸目[モロメ]を少年のようにキラキラさせながら、「僕、小説書くことにしたんだ」とかなんとか言っちゃってくれてるんだか。ほんとに。そんなの俺の知ったことじゃねえっつうの。第一お前がそう言い出してからもう何年になるよ。書きたきゃ書きゃいいだろ、さっさと。まあ、そんなことよりも今はとりあえず目の前にいる俺をせいぜい愉[タノ]しませてくんねえかな、せっかくの、久々のダチ飲みなんだし、小説書くとか言っちゃってるくらいなんだからさ、もっと面白い話をして欲しいもんだね、面白い話を。ところがどうだい、我が謎めいた親友、いとおしき彼[カ]の珍獣は、あれ以来口を噤[ツグ]んだきりで一度切り出した話を蒸し返そうともせず、先ほど一口二口つまむや否や、なんか「有り得ねえ」とかグチグチこぼしながら、それきりきっぱりと捨て置いたかのように見えた彼の不憫な枝豆の屍体盛りに再び手を伸ばそうとしている。なんか今回もダメそうだな、こいつ。にやり。
 わり、煙草くんねえ? あん?……ほれ。 おっ、センキュ。 お前もう普段吸ってねえんだろ? ああ、外で酒飲む時だけ。 はあん、なあ。 ん? あの店員、似てね? 誰に? 美里に。
 そう言って彼は、もはや原形を留めちゃいない諸々の被食者の残骸や、他でもない万物の捕食者であらうわれわれ人間の嗜好品の故に生じた灰や燃えさしの及ばぬところで両肘をついて気怠げに、彼曰[イワ]く、本日も寵辱の境で焦慮に塗れながら東奔西走、まだまだ正気は棄てられん、俺はまだ狂っちゃいない、としばしば思い出したように気炎を揚げては、仕事のついでに油も売って、それなりに息も手も抜くようにはしているものの、日々の倹[ツマ]しい暮らしぶりを繋ぐそのためだけに忙しく立ち働いていることに変わりはなく、その二心[フタゴコロ]は一時[イットキ]も安からず、結局はまた道理に昏[クラ]くなり陰気に汗ばむより他に仕様が無かったという、見た目は痩身の癖に夜毎のビールで胴回りだけが妙に脹[ハ]り出しており、まるで餓鬼のそれのようになってしまったその憐れっぽい上体をちんまりと下支えする姿勢のまま、何やら物を言はんとする炯眼で以てこちら側の視線を誘導しつつ、その一方の肘を支点にくるりと前腕[ゼンワン]を廻[メグ]らすと、それとなく右の食指でいまや彼の遥か後方に見受けられるだけになっておった先刻の女店員を指し示した。すると彼は例の如く、明け透けに嘲弄が織り成す気色[ケシキ]で艶[ツヤ]めきながら実に愉しそうに赤らんでいて、こちらと先方とを紐付ける意図でちょいちょいと流し目を繰り返しては、もはや瞑[メイ]すべき過去の痛手を前に、無二の親友とその心持ちが如何にして揺らぎかつたじろいで見せるのかを期待していやがるのか、大抵は彼が飽きるかこの表情が動くかするまでの間、それはもういやらしく喰い入るようにしてこちらの青白眼のそのまた奥を覗き込んでは探り探り、まっこと無遠慮にその色の微妙な変化をも逐一窺[ウカガ]ってみせるのだった。しかし実を言うと私は彼にそう促されるまでもなく、既に己[オノ]が追憶を投影せんがために、また初っ端に出された枝豆の不味さに遺憾の意を表したい気持ちも相俟[アイマ]って、度々彼[カ]の女店員を視界の片隅やらそのド真ん中やらでチラチラと捕捉していたのであった。あっ、また目が合っちゃった。てへっ。
 ちりちゃぁ〜ん、十七番さんお願い! はぁい!……ご注文お伺いします。 俺、生。お前は? ん〜と……じゃ、オレも。 生二つ。 はい、かしこまりました。 あっ、あと……。
 結局そのお客さんはわたしに言いかけた言葉をそれ以上口には出さずに飲み込んでしまうと、まるでそれが後で逆流してきて喉にも詰まりかねないという不安を紛らわすためであるかのように、その時にはまだ手元にあるジョッキの四分の一ぐらいの量はあった気がする残りのビールまでをも、どうしてだか明らかに焦り過ぎと思われる調子で、ぐいっ!と飲み干してみせようとして、ホント何をそんなに急いでいたんだろう、一息つくぐらいの間は十分に保てたはずなのに、それこそ慌てて流し込んだそのビールのせいで案の定喉を詰まらせちゃった上に、二度三度と激しく噎[ムセ]ぶそのうちに見る見る涙目にもなっちゃって、それでも何か物言いたげな眼つきはそのままに、一頻り咳き込んだ後の気怖じげな沈黙の中、その人は再び口を開くこともなく、その空になったばかりで水滴塗れの中ジョッキをすっとこちらへ差し出してきたのだった。何なんだろう、あの人。なんか引っかかるなぁ。さっきからジロジロ見られてる気がするしぃ……キモッ、ていうか、コワッ。何? 一体わたしの何を見ているの? イヤッ、なんかコワッ、どうしよ〜(半泣)なんて、それがどういうことなのかよくわかんないから、わたしは「コワい」って思うんだろうか、という具合に、どこか冷静に分析をはじめようとする自分もいることにはいるんだけど、中には。だけど結局、わたしはいつも、一度膨らみ出した不安にはどうにも抗し切れなくて、というか実にあっさりと、瞬く間も無いうちに、まんまと不安の泥沼に陥ってしまっている自分に後から気がついて、またそんな自身の臆病さ加減に嫌気が差しては、思わず溜息をついてしまうんだ。ホント、なんて脆いんだろう、わたしってば。はぁ……。こんなことだから大切な人に、いえ、大切にしたい、これからの大切な人になって欲しいと願っている人に、「もういいわ」なんて言われちゃうのかな。ああ、「もういい」って何なの? 一体何が「もういい」の? もうわたしなんか「いない方がいい」ってことなの? それとも、わたしのことなんか、「もういてもいなくてもいい」ってことなの? ねえ、「もういいわ」だけじゃわかんないよ、どうしてあなたがそう思ったのか、わたしはちゃんと向き合って話がしたい、未練がましいことなんてこれっぽっちも言うつもりなんてないんだから、もう恋の終わりを見誤る頃なんてとっくに過ぎてる、わたしが話したいのはそんなことじゃない、そういうことじゃないの、二人一緒にと夢見た未来が淡い恋の幻想に終わったからって、あなたとわたしの今までが「もういいわ」の一言で済まされていいわけなんてないよ、そんなの、あんまりだよ、最後くらい、いえ、最後だからこそ、ちゃんと向き合った上で、お別れしようよ、だってさ、「ありがとう」って、そう言える日が来るのは、早い方がいいじゃない、いつまでも、こんなことで気が塞いじゃって、モヤモヤして、次に進めないなんて、つまらないし、馬鹿らしいよ、ねえ、どうやら、わたしってば、本当に、馬鹿らしいよ……orz おっと、いけね、またバイト中に独白に耽ってしまっている自分がおりますよっと。(ふきふき)……はい! ここはこれでおしまい! 次はっと……まあ、平日のこの時間帯だからまだお客さんは少ないし、今日はいつもより少ないくらいだし、うるさい店長は休みだし、普段こき使われてる分こんな時ぐらいはのんびりやらないとねぇ〜。ああ、ゆっこに会いたいなぁ。また二人してお酒飲んで、わたしの甘酸っぱい、というかほろ苦い、つうかいい加減かなりイタイ、ここ最近の恋のあれこれについて語らいたいのでありますよぉ。また三茶辺りの落ち着いたお店でさ、お酒飲みながら美味しいものも食べてさ、くだらない話で盛り上がって、げらげら笑い合ってさ、そんなことで笑えるなら、それがどんなに辛い痛みでも、酒でつけた勢いと一緒に笑い飛ばしちまえ!ってさ、それでいいじゃん、ね。今までだって……。はぁ、言葉にならない。……ん? 何だ? また視線を感じるぞ? また十七番の人達? ちょっとぉ、一体何なの? ホントに、やめて欲しいんだけど、こっちはこれ以上他のことに気を回す余裕なんてないんだからさぁ〜。はぁ……。ん? 待てよ? これはひょっとして……わたしに気があるとか? まさか。でも……どっちがだろう? 二人とも? んなわけないか。あれ、どんな顔してたっけ? 一体どんな顔してる方が、さっきからわたしの方をチラチラと見てるんだっけか?……フム、念のため確認しておこっか。どれどれ? ほうほう……。はぁ。
 ちりちゃぁん! 今日通しでしょ? 今のうちに休憩入っちゃって! 賄いはオレやったげるからさ。 はぁい! 何にする? えっと……じゃあ、キムチチャーハンで♪ はいよぉ!
 ここんとこ知里ちゃん何かあったのかなぁ? いまいち本調子じゃないっつうか、折に触れカラ元気が見て取れてしまう瞬間が散見されると言いますか……。あっ、そういえば、「なんか今のカレシとうまくいってないらしいんですよぉ」ってのいちゃんとかが言ってたっけ。んで確か、「いいですか、ちりちゃんの恋のピンチはサイキさんにとってはチャンスなんですからね! 結局は『惚れた腫れただ』なんて言っても、恋とは時に非情なものなのです。もう! みんなわかってるんですからね。サイキさんがちりちゃんに気があるのなんてもうバレバレ。いいですか、どんなに泥臭くってごっつぁんでも、ゴールはゴールなんですよ! それでいいんです。事情はどうあれ、ゴール前にボールがこぼれたら、とりあえずは何も考えずに蹴り込むんです! カード(イエローカード)をもらったらもらったで、またその時に考えたらいいんですよぉ」とかなんとか……ったく、あのサッカー狂が、近代社会における成年男女間の恋の機微は近代サッカーにおけるペナルティエリア内の攻防とは似ても似つかねえっつうの。一体何の共通点があんだよ。未だに平成生まれの思考回路はようわからん。ていうか、たぶん君たちは知らないんだろうなぁ〜、って知るわきゃないか、誰にも言ってないし、きっと知里ちゃんだって言わないだろうし、言うに及ばずチャンスなんてとうに巡ってきていて、僕は君たちに急かされるまでもなく、ゴール前のこぼれ球をもうここしかないってタイミングで、それはもう無我夢中になって蹴り込んだのさ、そんで美事[ミゴト]ゴールネットを揺らしたかと思いきや、いやはや、物の見事にオフサイドでノーゴール判定……さすがにカードはもらわなかったけど、そのまま二度とゴールチャンスには恵まれずに試合終了……まっ、単純な負け試合とはちょいと違う気もするけど、せいぜい勝ち点1を分け合った、ってなところで、結局オレなんて予選リーグ突破も叶わず早々にお役御免になっちゃってるんだよねぇ〜。ああ、なんて切ない……。てか、意外とサッカーの喩えで結構いけちゃってるなぁ。うむ、やはり野井田美奈は侮れぬ。そんな君が近い将来「な○しこジャパン」に選ばれちゃう日をみんな心待ちにしているからねぃ。ほんと、大学までサッカー続けたオレなんかよりもよっぽどセンスあるんだから。まあ、オレはキーパーだったからあれだけどさ。ああ、またみんなでフットサルもどき(笑)やりてえなぁ〜。のいちゃんがいるうちにさ、みんな散り散りになっちゃう、その前にさ、もう一回ぐらいは、さ。まことに輝かしい未来、か……。ほんと図体ばっかデカくって(190cm弱)いつまで経ってもうだつの上がらない、もはや二十代も後半に差し掛かったというのに、この先一向に上がる見込みもなさそうな、そんな取るに足らない一フリーターに過ぎぬオレ如きに今できることといったら、都心外れにある繁華街(?)の尽きる一歩手前、それはもう場末と呼んでしまってもよさそうな立地条件下に置かれて時の経過とともに車の排ガスやら粉塵やらでか黒く煤けていったに違いないこの鉄コン筋クリート仕建て(全五階)の陳腐な雑居ビル(名前は知らない)の一フロア(4F)に間借りして年中無休で商っている大手居酒屋チェーンの一店舗内に備え付けられたこんなにも小汚くて狭苦しく何処か仄暗い感じさえして時にそれは郷愁を誘わずにはおかないといった風情のこれはもはや乃至いずれは心情的にもあのステンレスのよに草臥[クタビ]れた鈍色[ニビイロ]が基調とならざるを得なくなりそうで正直それが至極残念にも思われるのだがどの道皆が皆遅かれ早かれ先行きをぱったりと閉ざされてしまう定めなのだから何かと渋いことばっかりなのも止むを得ない、そんなお気楽ではあるけれど深入りをしたらしたでその分報いへの期待は薄くなっていく一方という結構因果な厨房内に独り立って、フラれてもまだ好きな女の子のためにせめてもとその子の賄いであるキムチチャーハンを心を込めて拵[コシラ]えてあげるっつうこの何とも健気な役どころをせいぜいそつなく無難にこなしてみせることぐらいだからなぁ……なんか、いろいろと切ない境遇ではあるまいか。ふぅ……、なんだかえらく独り語っちゃってるよなぁ、柄にもなく、でも本当はわかってる、心が波立っているから、そりゃいつもがいつも同じ様にはいかないさ、銅像じゃあるまいし、大凪[オオナギ]もあれば時化[シケ]だってあらあな、これは通り雨みたいなもんか、どうしたって、まだ気になるから、まだ、彼女のことが、す、好きだから……。くっ、なんて切ない。さて、気を取り直してっと、今日はあのいやらしい店長がいないからな、知里ちゃんの好きなチャーシューもたっぷり入れてあげよう、それからっと……おっと、そうだ、しらがねぎもっと……よし! でけた!
「ちりちゃぁん! チャーハン上がったよぉ!」、「はぁい!」――うん、好い返事だ。
佐伯[サエキ]さんはきっと、わたしのことをまだ、好いてくれている……それはわかってる。自惚れなんかじゃなくて、そういうのってやっぱり、伝わってくるもんなんだ。それが思いを寄せている当の相手に、他でもないその思いが及んでしまうことをも憚[ハバカ]らないような人であれば、尚更、それは伝わってきやすいし、わかりやすい。わたしのような人間の場合、その方が、ちょっと助かる。そう、佐伯さんは、わたしのことを、助けてくれようとしている、そんな品心[シナゴコロ]の優しくて温かい、いつも一緒にいるみんなをほっこりさせてくれる彼だから、わたしのことも、いいえ、きっといまは、わたしのことだけを、特別に気にかけてくれている、あの日あの時に彼は、わたしのことを、好きなのだと言ってくれた、それはきっと、確かなことだろう、そして彼は、わたしに、あなたのことだけが好きなのだと、切なさが募ることも辞さずに、念を押してまで……、普段は何気に構えるでもなく鷹揚としている彼が、ことわたしのこととなると、途端に周囲の目も憚らずにナイーブな一面を覗かせて、自らの求めに臆するような素振りを見せはじめる、のいちゃんを筆頭に、彼ら気の置けない仲間達なら、もうみんな、気づいてるんじゃないかな、ゆめちゃんもコウちゃんもジョリさんもケイちゃんもまこくんも……みんな、そういう話嫌いじゃないし、特にのいちゃんはきっと、佐伯さんのことが、好きだから……。ああやだ、わたしやっぱちょっと、自惚れてる……、だから何なのよ、いいじゃない別に、なのにわたしは……どうして……、わかっているの、本当は、佐伯さんが好きなのは、「わたし」じゃないから……。
 おっ、またちょっと揺れたか? ああ……。 そういやさっきお前動揺してたろ? あん? 別に。たまたまだろ。 いやいや、間違い無くしてたろ。ふひひひ。――ったくもう。
 実[マコト]に遺憾ながら我と我身[ワガミ]の親しき友でも有り得るという彼[カ]の低俗な悪餓鬼は、単に己[オノ]が眼前に坐[マシマ]す御高節純粋[ピュア]な人心[ジンシン]の折に触れ機に臨んで変に応じながらも幼気[イタイケ]に揺らめいて見せるその様をあざとく目端で捉えては得たり格別とほくそ笑んでいるわけではないのだろう。そうではなくて、かつては人心の人心らしく他人[ヒト]に働きかけんとするその情理までをも、一体何の故かは知れぬとて、頑なに拒んでいるかのように見えた彼の防衛過剰な人の子が、歳月を慈しみとし、内外に至る感傷や抵抗、万物にも及ぶ恩恵や人間存在の不条理など、引く手払う手ともに数多[アマタ]な種々諸々[シュジュモロモロ]の悲喜劇的要素の混在する中で、それもオレとアイツは最も多感な時期を共に過ごしてきた仲で、みたいな感じで、時には己が生誕をすら災厄としながらも、ほんの微々たるものに過ぎない一握の砂の如き不幸中の幸いを由[ヨシ]として、独り儚き意を紡ぎ、恐らくは束の間を、まずは一世[ヒトヨ]限りの己[ウヌ]が一身の生として繋いで、ある時ふと話を聞いた頃には、いつの間にやらデキていた彼女とは人知れず手を繋ぐ仲なんて疾[ト]うに通り越しており、お二人の馴れ初めもそこそこに、今や昼夜を分かたずに人目を忍んでは仲睦まじく契りをも交[カワ]しているといった惚気[ノロケ]っぷりで、なんだお前、ついこの間までは女には興味無え、みたいなことを平気で言ってやがった癖に、今まで散々硬派に見せかけておきながら、実のところ単なるむっつりだったんじゃねえか、ええい、水臭いにも程があるぞ、ていてい、なぞといった具合に仲間内で一頻り槍玉に挙げられたその後には、何とはなしにまた一つ通過儀礼を終えたのだといったような歓迎ムードの中で、自身のあどけない恋の所業について根掘り葉掘り訊ねられては、こちらもこちらで恋に恋する悦[ヨロコ]びを一身に享受しながらそれなりに愉しんで受け答えをしていくうちに次第に妙なテンションにもなっていき、聞かれてもいないことまで嬉々としてしゃべり出してはこれまでにない饒舌[ジョウゼツ]っぷりを披露するといった始末で、まあ、聞く者も話す者もとりあえずは色恋沙汰というだけで色めき立って燥[ハシャ]ぎ合えた頃の話であるから、現代[イマ]や「恥は掻き捨て世は情け」ってなもんで、たといその忘却の彼方には、もはや若気の至りでしたとしか弁明の仕様がなく小っ恥ずかしいことこの上無いだけの甘酸っぱい数知れぬ思いや不用意な発言の数々が、いつかまた語られる日がやって来ることを待ち侘[ワ]びているかのように、未だ言の葉を仮[カ]りて無常の風に煽られながらも、決して消え果ててはしまわずに、ひらひらと、際限も無さそうに、この己が身内に潜む虚空の闇の中を延々と、それは悠久の春風に舞うように、当て所[ド]もなく漂い続けているのだとしてもだよ、そういった諸々の根底に在る本来であればただ言外の事どもとして片付けられてしまいがちの種々雑多な諸事情をも踏まえた上でそれらを総括し吟味検討したのであれば、今まさに私がそうしようとしていたように、それらを単に「嬉し恥ずかしながら、今となっては好[ヨ]き想ひ出です」とか何とかだけ言って済まされるような問題ではなくなってくるのではないか、いや、別にそんなことは言わずにそれはそれで済ませておいちゃった方が身のためなのかもしんないけどさ、本当に、どうしてなんだか、私の場合はどうにも放っては置けないと言いますか、いつからか己が根底を省みずには已[ヤ]まぬ業[ゴウ]みたいなものまで抱え込んでしまっておった、というような節があります故、ま、ここは一つ道草気分で、恐らくそこには妬み嫉[ソネ]みに代表されるような醜くおどろおどろしい感情の数々や、無思慮かつひたすらに自己保身的で姑息なだけの虚栄心であるとか、さらには、かつて自己の存在の根本をも揺るがしかつ脅かすような精神的危機に見舞われた際の痕跡[キズ]であり、未だ根底から表出に至るまでにも差し障りを見せる気配のトラウマであるとか、正直目も当てられない、というか、できることなら一生涯伏せたままにしておきたい、というような裏事情ばっかりである故、何人[ナンピト]も余程のことがない限りはよくよく自ら省みることもままならない、そんな私をも含めた有象無象が容易[タヤス]く陥りがちなのになかなか気がつけない意識下における彼の無知蒙昧たる感情の渦の如き混沌とした無意識とも呼ばうる濁流の中に自ら進んで身も心も投じてみようなどと試みる者というのは、何というか、何かしら不幸な者ではあるまいか、別段誰に頼まれたわけでもなかろうに、何をわざわざ好き好んで、知らぬが仏、とも言うではないか、って馬鹿にすんなよ、確かにおフランスには行ってみたいけど、少なくとも私はこの時点においてもはや仏として在りたいなどとは露[ツユ]ほどにも思っていないのであるから、そんな私とは断じて仏ではなかろう、私とは人の子である、たとい父や母は持たずとも、この私とは誰かの子であり、誰かの子でしか在り得ない、それは単なる事実であり〈現前〉として在る――と言うのも、そもそも人の子とは男女による目合ひ[マグワイ]に端を発するのであり、事の初めにおいては決して父母により生ずるのではないから、不意に故意に子を生ぜしめた幼気な男女が公[オオヤケ]により父母という大人の男女として仕立て上げられるに過ぎないのであり、またそうであるからこそ、父たり得ない男親や母たり得ない女親も生じてくるに相違ない、もっとも実際に胎[ハラ]を痛め産みの苦しみというものを身を以て知ることになる女親ならともかく、男の場合は自らが子を生ぜしめる契機となった男親であるという事実を事実として自覚することが必ずしも容易ではないため、そこには常に「男親は他の男でも有り得る」という懐疑が付き纏う、女の交遊関係によっては、或いは……と、DNA判定などと言ってもそこに万が一が無いわけではないし、それに極々一部の例外を除いては、男親かもしれぬその男が、何か自身の手によって客観的に事の真偽を確かめ得るような術[スベ]を持っているとは考えにくい、言ってしまえば男の側は、窮極的には自身がその子の男親であるとそう《信じる》より他にないというのが実状ではなかろうか、「たぶん酩酊して意識を失っていた隙に……」とか、「もうわたしってばとにかく忘れっぽくて……」だとか、「いつ誰と性交〔SEX〕したかなんていちいち覚えてない……けど、まあ、同時期に複数の男と頻繁にヤッてはいました」などなど、余程のことが無い限りは、誰がその子の男親で有り得るのか身に覚えまであるのは、他でもない人の子を孕[ハラ]んだその当の女だけではあるまいか、しかし男女の別なく時に人の子というのは、実に巧みな嘘をもしれっと吐[ツ]いてみせるものでもある故、或いは……、と斯様にして一見われら人の子の己が〈認識〉の不完全さに基づくこの懐疑というものは(それが男女間における人の子ができちゃった話に限らないことは言うまでもないが)決して尽きることがないようにも思われる、が、これまでのいつの世においてもわれわれは、たといそこに未だ疑わしきはあっても、今の段階ではこれ以上疑ってみたところで仕方が無いと、そう限定することよって、或いはそれも束の間に過ぎぬやもしれぬ、と内心訝[イブカ]しみながらも、飽くまで後[ノチ]に来る人の子に繋ぎ得るための、この他でもない秩序を保つ道の方をこそ選び取ってきたのではなかったか、無論多大なる過ちは跡を絶たない、しかしそれでも、現にわれわれはこうして続いているではないか、続けているのではないのか? そしてこれからもこの先も何処までも、われわれは人の子として、これを続けていこうとしているのではないのか? ただしここで一つ肝に銘じておきたいのは、そのわれら人の子の疑い得る範囲というのも、決して不変では有り得ないということだ、それもまた、そしてわれわれもまた、時とともに変遷を繰り返しては、その度に過ちを改めもしてきた、たといそれがほんの微々たる変化に過ぎないのだとしても、たといそれが人の子のほんの束の間の生を繋ぐ往生際の悪足掻きに過ぎないのだとしても、それでも、未だ嘗て後の子に続き得る変化への兆しもまた、一度たりとて跡を絶ったことはないのであるから、それはまだだ、まだまだ何もかもが終わったわけではないというのに、一体全体続けるより他に何ができよう――とは言え、ひょっとすると私は時に仏でも在り得るのかもしれないが、それは決してわれら人の子の常態とは為り得ないのではないかしら、誤解を恐れずに言ってしまえば、そもそも〈仏〉とは常態ではなく〈状態〉であろう、〈仏〉とは悟りを開[ア]いた者であり涅槃[ネハン]の境地にひとり坐[ザ]する者であり〈沈黙〉である、そして無論人の子、現にわれわれは死者たちのことを〈仏〉とも言うではないか、時には「死人に口無し」とも、そしてさらに言えば人の子の人の子たる由縁とはそもそもはじまりの人々が〈沈黙〉を失ったことに起因するのであるから、斯様に長々と己が思弁をのたまって止まない私なんぞが〈仏〉であろうはずがない、われわれはまず〈沈黙〉を失った、もはや〈沈黙〉は無い、われわれがこのようなわれわれであるのは、そもそも〈沈黙〉を失ったためであるから、たとい己が声を絶ち黙りこくっていたのだとしても、それがここで言うところの〈沈黙〉であるとは限らない、そのような人の子であっても、彼[カ]の身の内には引きも切らぬ喧噪があるやもしれぬから、「……〈沈黙〉……」という言明自体が「〈沈黙〉の崩壊」となる、故にそれは語り得ない、われわれによって語り得ないものというのは、われわれにとって《示される》より他にないのではなかろうか、ただしその《示され方》となると、いろいろとありそうなものだが、菩提樹の下[モト]にひとり坐し、唯一語り得ない境地にまで達した仏陀[ブッダ]は、何処までも天上天下唯我独尊として、自らの身を以て彼[カ]の〈沈黙〉を示され、今生[コンジョウ]より去って逝ったのではなかったか、万物の一切とは生滅流転[ショウメツルテン]して已まぬ、即ち〈無常〉であると、かつては人の子に、そう説いてもみせながら……、その言[ゲン]はまさに諸行無常の響きとなりて、娑羅双樹[サラソウジュ]の花色[ハナイロ]の如き盛者必衰[ジョウシャヒッスイ]の理[コトワリ]をも、われら人の子に知らしめんとす、おごれる人も久しからず、と、確かにそう嘯[ウソブ]いてもみせるのだ、他でもない人の子の、彼[カ]の声に、数限り存[ア]る言の葉が、このように、振れ舞うようにして……そう、仏陀亡き現在[イマ]、それは果たして幸か不幸か――って、あいつ遅えな、クソか? んあ。……とまあ、とにもかくにも、何かと頑なで気難しいだけが取柄だったような人の子が、こうしてどうにかこうにかとりあえずは三十路一歩手前にまで差しかかり、平日の、それもまだ日も暮れきらぬうちから――ぱっと見ほかに客は二三人(そのうちカップルらしき男女が一組)しか見当たらない、駅近にある居酒屋兼お食事処のたぶん駅とは反対方向の突き当たりにある入り口からも便所からも大分遠い奥まった喫煙席側の一角、流石にやや手狭ではあるものの、気心の知れた旧友と相対座して酒を嘗[ナ]め合いながらふと一瞥する分には未だ経年の翳[カゲ]りが見えない程度には新しく、これぞまさに「わたくしどもは薄利多売で以て商売繁盛を可能にすべく、お客様一人びとりの身になって考え、当社の経営理念をこのように快適な商空間として実現いたしました!」とか何とか言はんばかりの、そんな地に満ちる現代っ子の廉価大量消費を促すべくよく設[シツラ]えられた通常時は二人掛けの実にこぢんまりと壁際に収まったテーブル席のうちの一つに陣取って、旧友とは言え余所様[ヨソサマ]の、それも往時の蜜月、その俤[オモカゲ]をだよ、あろうことか安酒の肴[サカナ]にまでしよってからに、その上ほろ酔い気分の小憎らしい笑みをすら満面に浮かべても見せながら、仕舞いには去り際のよろめいた拍子に屁まで放[ヒ]りつつ便所に立って行ったという、少なくとも私の前での振る舞いは実に奔放そのもののようでもある彼の旧来の友との来歴を、非常にざっくりとではあるがそれでもそれなりに振り返り甦らせ語り出してもみせそうな気配、流れであったのに、それがいつの間にやら我と我身にとってはどこをどう多く見積もっても分不相応でしかなさそうな〈仏〉がどうしたとかいう誇大的な妄想のひとりでに涌き返るに委[マカ]せるまま云々[ウンヌン]と、これまたひとりでうんうんと、蜿蜒[エンエン]と、飽きが来るまで呻吟[シンギン]しておりましたとさ、どうしてまた、なんてことを中生[チュウナマ]二杯半分のアルコールを注入した地頭[ジアタマ]でぼんやりと目の前にくゆらした紫煙を矯[タ]めつ眇[スガ]めつ眺めつつゆるゆると思い返したり何だりしながら、今生にて便所還りの友をこうしてひとり黙坐[モクザ]して待っていられるというのも、私があのような時期にあのような奴らと関わり合いながらあのような経験をしてきたからで、今現在の私というものがいま此処にこうして在ると言うのも、これまでにそうしてきたことがその一因ともなっているからなのであろうし、また現在に至るまでにも水面下において数え切れぬほどの往来反復に堪[タ]えてきたに相違ないそうしたことどもの積み重ねの数多こそが、他でもなく私をいままさにこうしてこのようにさせており、また現に私をこうしてこのようにさせずにはおかない由縁なのではなかろうか。たとい当人がそれを〈意識〉しているにせよ、していないにセヨ。ソウ、反繰[グ]ル。繰リ返シノ積ミ重ネハ積ミ重ネノ繰リ返シ……みたいな――って、なんのこっちゃ。おっ、我らが友のご帰還である。さあ皆の衆、麗[ウルハ]しき金色[コンジキ]の麦酒〔bier〕を持て、祝杯をあげよう!
 おかえり。クソか? 違えよ。嫁と電話。あとコンビニで煙草買ってきた。 あっ、わり、もう一本もらってたわ。 ああ。――こいつはその時々の彼女のことを「嫁」と呼ぶ。
「ちりちゃん、大丈夫?」だってさ、わたし思わず「え?」って言っちゃった。揺れが収まった後に駆けつけて「大丈夫?」はないでしょ。それもあんな蚊の鳴くような声で。なんか飼主に向かって鼻を鳴らしてみせる大型犬みたいだったな。ふっ。どうしたの? 何をそんなに心配しているの? 怖かったの? それとも、わたしの身を案じてくれているのかしら? あの程度の揺れで? ありがとう、優しいのね。でも、あなたはわたしにこう言ったのよ。「僕は君のことをこんなに気にかけているよ、怖かったよね、君は地震であんなひどい目に遭ったんだもの、仕方ないよ、だからどうか、独りで抱え込んだりしないで、僕に、僕に、どうか僕に……やっぱり僕じゃダメなのか? ねえ君、そんなこと言わずに……こんな、こんな可哀想な僕のことも気にかけておくれよ」って。わたしはどうすればいい? あなたがわたしにそうするように、わたしもあなたに同情してみせればいいわけ? 冗談じゃないわ。自分がされたくもないことを他人にしてみせろっていうの? ふざけないでよ。ねえ、何なの? いったい何だっていうの? ねえ、答えてよ。それで? そうすれば? どうなるの? ねえ、誰か答えてよ。それで、そんなことして……、いったい何がどうなるっていうのよ! どうにもならなかったじゃない! 何ひとつ、どうにもならなくて……何にもできなくて……それなのに、どうにかなるって……ああ、ああ、ああ!……もう、もういや……それなのに……何で? ねえ、何で? 何でなの? ねえ、誰か答えてよ! これっていったい何なの? ねえ、わたしにどうしろっていうの? ねえ、いったい何だっていうのよ! ああもう! やだ! やだ! やダ、やだヤだ、ヤダ、やダヤだやダヤだヤダやダヤだヤダやだ……も、いや……だ……いや! もういや! いやなのよ! なのにどうして? どうしてこんなこと……ねえ、どうして? どうしてなの? わたし、一体どうして……どうしてこんなことに……。
 ――ねえ、かいる、あなたならなんて答える?……ねえ、知ってた? わたしもう一生、死ぬまで……いえ、たとえ死んでも、あなたのその答えを聴くことは決して叶わないの。人が「死ぬ」って、そういうことなんだよ。でもあんたならきっと……わかってた? わたしはね、あなたを失って……初めて知ったの。もう、どうしようもないのにね……。
「海の見える街」に住んでいる、というのが、あの頃のわたしの、一つの誇りでもあった。でもはじめからそうだったわけじゃなくて――自分や地元の人達だけじゃ、それが余りにも当たり前過ぎて、気がつけなかったと思うから……、毎年夏休みになると埼玉から遊びに来ていた従姉の琉衣[リュイ]ちゃんが、実家[ウチ]に来るたんびに飽きもせず、「いいね、いいところだね、素敵。ああ、あたしもここに住めたらなぁ〜。そしたらちりちゃんと同じ学校にも通えるしぃ……って、あっ、でもあたし一コ上だから中学校に上がったら分かれちゃうね、でもまたすぐ一緒になって……と、そしたら次は高校かぁ……、ああでも、ダメ! ダメダメ! あたしちりちゃんみたく頭良くないからきっと同じ学校には行けないにょぉ〜(半泣) 悲しい。でもそうなったらきっと楽しいね♪ そう思わない?」なんてことを言うもんだから、こっちもだんだんそんな気にもなってきて、それでたぶんそんなことがきっかけとなって、幼児期からちょっとおマセさんだったらしい当時のわたしには、いつとなく我と我が街を見つめ直すような心境で日々を過ごすことが常となっていた時期があって、そしてそれはやがて琉衣ちゃんが遊びに来ることもなくなっていた頃には、「わたし、この街が好き」というところに落ち着いていたのだった。そしてその後お勉強が苦手だった琉衣ちゃんはというと、結局は入試で九九が出題されるような郊外にある私立にしか受からなかったけど、その後は順調にお金さえ払えば入れる(たぶん卒業もできる)短大に進んですぐに、新歓コンパで知り合ったとかいうそんなに好きじゃなかったらしいカレシとの間に子供ができちゃって、それでやむなく短大の方は諦めて、そのまま入籍して、半年後には式も挙げて、その時はわたしも出席して、でもやっぱり上手くいかなくて、確か一年半ぐらいで離婚して、シングルマザーになって、「わたし一人じゃ無理だから」って埼玉の実家に戻って、その頃のパート先で同じくバツイチのいまの旦那さんと知り合って、それから数ヶ月後には再婚して、今度は二人と家族だけのささやかな式を挙げて、わたしの元にはその時の写真をあしらったポストカードが送られてきて、そしてその後すぐに、二人の間には、それぞれにとっては二人目の、家族にとっては三人目となる子供ができて、それから……それから……。
 時計に目を遣る。食べ終わってから五分程が経過……。大丈夫、まだそんなに「ズレ」てない……はず。食器、は……佐伯さんが持ってってくれたんだっけ。ああ、心配されたことに一杯一杯になっちゃって、わたし、ちゃんとお礼も言えてなかったみたい……その上……、ごめんね、佐伯さん……わたし……。はぁ、っとにもう……。いやんなるわ。
佐伯さんは食が細いわたしのことを気遣って、いつからかわたしにとってちょうど好いご飯の量をちゃんとわかってくれていて、それから、本当はダメなんだけど、店長の目を盗んでは「ご飯を少なくした分だから」って、わたしの好きな具をトッピングまでしてくれて、それになんだか見た目にまで気を使ってるみたいで、ある時わたしの賄いを見た店長に「おい、提供品よりも出来が良いんじゃないか?」なんて嫌味を言われちゃったこともあったっけ。佐伯さん、優しくしてくれるよなぁ……ホント、みんなにも優しいけど、わたしに対しては明らかに+α[プラスアルファ]が認められるし。ああいう人柄っていうのはやっぱ、育ちの良さからくるものなのかな。人の良さが顔にまで滲み出ちゃってるといいますか。そこを店長に付け込まれちゃうことも少なくないし……。でも今日のはちょっとやり過ぎかな。なんかだいぶ具が増量されてたよね、のるはずのないネギまでのっかっちゃってたりとか。別にそこまではしなくても……。こっちがそうしてって頼んでるのならまだしも。はぁ、ホント、ありがたいことだとは思うんだけどね……そんな風に、わたしのことを「想って」くれている人がいるんだってことは、きっと。だけど「わたし」にとっては……そういうことが……う、うが、ダメだこんなことじゃ……ていうか、わたし、こんなのってイヤだ! よし、休憩明けは普段よりも三割増しの「ちりちゃん」スマイルで元気よく立ち働いてみせることにしよう! いつも以上に明るい声で、オーダーミスにも気をつけて、ホールにもキッチンにも迷惑かけないようにして、それから……それから……。はぁ、こんなことなら一時間休憩無しで働いてた方がいっそ気は楽なんだよね。さすがにお腹は空くから、ご飯だけ食べてすぐ、とか。でもそういうわけにもいかないしなぁ……、みんなボランティアじゃないんだからさ。働いた分はしっかりともらわないとね。もらえない分は働きませんよっと。ったく、「わたしたち」に限って言えば、だけど、みんな時給分の働きは十分にこなしてるんだから、細かいことでいちいち文句言うなっての。店長の杜撰[ズサン]な食材管理の方がよっぽどお店にとってはマイナスだと思うんですけど。ってまあ、わたしは直接何か店長に言われたことはないんだけど……。例外的に。何でだろ? ちゃんとできてるってことなのかな? でもあの店長の小言はそういうことあんま関係無い気もするし……。ちゃんとやってる人にもやってる人なりに、よくもまあチクチクとなんか言ってるよね、いつも。だからなかなか新人君が居つけないんだよ。ああいう人の扱い方ってやっぱ問題あると思うんだよなぁ。まあ、その分割と根性のある人達が残って、「横の繋がり」が強化されるっていう一面もあることにはあるんだけどさ。それにしても、ねぇ……。ま、そりゃさ、わたしたちなんて所詮は仮り雇いのアルバイトに過ぎませんからね、店長にしてみれば、やめたらやめたで結構、こちらとしてはまた同じ条件で、文句一つ言わずに働く人材を新たに雇うまでなんで、ってことなんでしょうけど。きっと会社としてもそういうやり方、してるんだろうし。――たとえそれがどんなに細く頼りない「繋がり」であっても、わたしたちにとっては「繋がっている」というそのこと自体が重要なのさ。たとえそれがどんなに儚くて、束の間に過ぎないのだとしても、ね……。今までだって……ずっと、そうだったんじゃないの? そうかな……そうだったのかな……。正社員っていってもねぇ。なんだかんだで店長とか社員の人達も大変みたいだし。働けど働けど誰の暮らしも……か。そういえば時給に換算するとわたしたちよりも賃金が安いって嘆いてた社員の人もいたっけ。あの人(♂)は結局すぐにやめちゃったんだよね。ま、あれはあれでかなり問題もあったから、何とも言えないところではありますけれど。あの人の名前、は……うん、忘れたな。(チラッ)はぁ。時間が過ぎない……。――全く、イヤな流れだ。
過ぎ去らない時間は骨身にこたえる。そこに是非は無い。外界の惨状に通じて無残な有様を呈した人心にも、絶え難く時間の腐蝕作用は忍び寄る。時々刻々と後人の嘆きは持ち重り、当て所を失くされた忘却の楔は空を切る。もはや錆びついた庇い手に、なけなしの欣求――わたしは独り払底に蹲っている……。
 こんな時にケータイを眺めるのは好かん。あの時の事を思い出すから……。かいるのブログやSNSのページは相変わらず更新されずに凍りついたままだ。当たり前だけど。頭ではわかっている、つもり……なんだけど、未だ実感に乏しいというのが実情だ。だってあいつ、本当に戻って来なかったから……。いつかまた、忘れた頃にひょっこり現れるんじゃないかって、もうそれはないよって自分で自分を打ち消しながらも、神出鬼没だったあいつのことを思い浮かべては、少しでも気を楽に保とうと努めている自分がいる。でも最近は、そういうことも全部、忘れてる時がある……。こんな事でも無いと、何一つ思い出せなくなってきている? それは恢復[カイフク]の兆し? だけど未だその周辺には、思い出したいのに思い出せない、忘れたくても忘れ去れない、そんな記憶の記憶らしくなれないでいるような事実無残な後始末、再視[サイシ]に悲惨と取り残された断片の数々が、累々と横たわっているような気がして……。特にあの前後のことは。わたしはそれに触れた時、もう一度「繰り返して」しまう、「思い出す」んじゃなくて「繰り返す」……あの時を、もう一度。そしてそうしている限りは、その「事の終わり」も見えないようなもので……。というのも、それが一度[ヒトタビ]当人にとって「過ぎ去りし事」とされ、人の手に成ってしまえば、それはもはや野辺[ノベ]に打ち棄てられた残骸としてあろうはずもなく、時に忘られ時に思い出されて、後[ノチ]の子に「語り」継がれもし得る汝[ナンヂ]自身の「こと」として「もの」として、他でもなく汝とともにあるようになるはずであろうから……。
 ――かいる、あんたが言ってた「声」ってこういうことなのかな。最近はわたしにも時折、聞こえるようになったんだよ。あんなことになって、どうしようもなくて、辛いことが多過ぎて、身動きも取れなくなった時には、わたし、いつも、あなたならどうするかって、あなたなら何を見て、どう考え、何て言ったかって、ずっと、そんなことを想像してたの。この先どうなるのか、なんて何も思い浮かべられなくても、それでもあなたなら、そんな事態の最中[サナカ]にあってもひとり飄々として、一人じゃ無理なわたしでも、あなたと一緒なら、きっと、乗り越えられるような気がして……。静寂が切々と身に堅固[カタ]く、沈黙に圧[オ]し潰されそうになった時、わたし、あなたの声に耳を澄ましていたの、わたし、あなたの遺[ノコ]して逝った言葉に耳を傾けていたの……。