日の国や月の下

重呪闡明

月に枝豆、危機に猫。(一匹目)

 枝豆。 ん? 枝豆だよ。 あ? そこにあんだろ。 いや、そうじゃなくてさ。小説、書くことにしたんだよ、『枝豆』っていうさ、習作、なんだけどね。 秀作? あっ、醤油取って。
 先刻、学生と思[オボ]しき女店員の導き手により我らが卓上にやって来た二八〇円(税込)の湯煎済み枝豆様ご一行は、如何にも未だ十分には氷結解[ホド]けやらぬといった按配で、恐らくは電子レンジでチンもされずにちんまりと、その上この上も無く無造作に、ともすればそこら近所の百均辺りで見かけて思わず二度見してしまいそうな、それはもう大層慎ましやかにするようにと意匠を凝らされ、それはもう夥しい数を生産されたであろうとても簡素で物の哀れな小鉢のうちの一つに、一山然[ヒトヤマゼン]としてくっきりと盛られていなさる。仕方なしにパクッと一口つまんでみるも、やっぱひゃっこくて味がしねえ、水っぽくて塩気も足りない、その上どの粒も小振り、というよりか痩せっぽっちで平べったく、こちらの期待したあの豆々しい食感が一個もない、要するに喰えたものではない。それに何だかそのけばけばしいまでの緑々[リョクリョク]しさを認めるにつけ、あんなにも煽情的で旺盛だった私の枝豆に対する欲求は、見る間に萎[シボ]んで見る影もなくなっていく始末で、一体何の因果でか、いままさにわれわれの目の前に降[クダ]されているその緑の亡骸[ナキガラ]の一群から音も無く、一足飛びに、遠のいていってしまった。余りにも無残な、本日の枝豆。これで二八〇円(税込)か、少し前なら煙草が買えたな。それがいまや某少年漫画の単行本一冊に相当する価格とは。時代の流れというか、全く、物の価値とは一体何ぞ? 結局はそれを定める人間次第なんじゃ、しかし現実はそんなに素朴で単純なものではあるまい。とかく人間というのはややこしいものであるし、それが世間ということになれば尚の事。それに依然として自然の問題もあるしな。こやつも以前ほどには気安く煙草をくれなくなるのだろうか。そりゃ私としてももらいにくくなるわな、全く、世知辛くなっていくばかりの、世の中、そしてどうやらそんな中で慎ましく、どうにかこうにか生きていくしかなさそうな、わたし、と言ふいと小さきむじな一匹、もはや満足に穴を掘ることも能[アタ]はず、か。まあ、私はアナグマじゃないがね。別にこれといった行き場を持たないだけの、己[オノレ]や他人を卑下することには長[タ]けている、そんなしがない人の子か。
 んで、何? 就活がどうしたって? 就活じゃねえよ、習作だよ。 秀作? まだ書いてもいないくせに? そっちのじゃなくてさ、練習の方の、習作。 ふうん、あっそ。で?
 で?ってねぇ……と余りにもつれないこちら側の返答に、もはや取りつく島など無いに等しいというのを見て取ったのか、目の前にいる自称物書き志望の三十路[ミソジ]一歩手前、或いは、実は機を見るに敏なる小説家先生の卵だったらしい十数年来腐らぬ縁の我が謎めいた親友(道産子♂)は、何やら急に泳ぎだした視線の跡を追うようにしながら、利き手(右手)に取ったおしぼりで茶色い居酒屋の十七番卓をせっせと拭きはじめたのだった。ふきふき、ふきふき、と。しばし視線は定まらず、落ち着きも無く、どうやら居た堪れなくなってしまったらしい。可哀相に。そのうちに視線の方は何処[ドコ]かふきふきしている手元の一点に落ち着いたかのように見えたが、目に入ってはいても何も見ていないような眼の色をしたまま、またふきふき、たぶん継ぎ足す言葉が見当たらなくてふきふき、いつまで経ってもふきふき、しているのだなふきふき。まあ、いつも通りだということだ。安心した。ふきふき。こいつは酒が入って間が持たなくなると、決まって俺に煙草をねだるかおしぼりでふきふきするかしやがるからな。どうせまた煙草が値上がりしたんでくれとは言えなくなって、いつもより余計にふきふきしていやがるんだろう。ふっ、相変わらずの小心者め。ほんとこいつは昔っからそういう小っさいこととか細けえところを必要以上に気にするところがあるからな。その癖時折とんでもないことをしでかしやがるし。高校の時なんて、ぷぷっ、俺らの学校で、ぷぷっ、あんなだったのなんて、ぷぷっ、こいつだけだし、ぷぷっ、その上教師に盾突いてあんなことまで……ぷぷっ、絶対退学になると思ったんだけどなぁ、学校に親まで呼ばれてまあ、ぷぷっ、若気の至り、とはいえ、ぷぷっ、この事実は俺が生きている限り決して忘れまい、そして何かことあるごとに必ずや物笑いの種にしてくれよう、ぷぷっ。ん? どうしたんだい? 煙草が欲しいのかい? 物欲しそうな眼をしやがって。ほれ、どうした、くれと、下さいと言ってみろ、どうかあなた様のセブンスターをこの貧しくて憐れなわたくしめにどうぞ一本分けておくんなましとよぉ、そしたらまた脆くも欲望に負けてしまったお前さんをにべもなく拒否ってやるんだからさぁ、そりゃおいそれとはくれてやれないねぇ、ここんとこ俺だって景気悪いしさ、ほんと、悪くなっていくばかりでさ、正直きついわけよ、そりゃね、いくら旧[フル]い付き合いのダチが相手だからって、いや、そんな長い付き合いのダチが相手だからこそ、か、そんな時ぐらいはいい顔ばっかりもしていられなくなるんだわ、ほんとに、辛いのよ、みんなのヒーロー企業戦士サラリーマンってやつのお勤めはさ、要するにねぇ、世間ってのはそんなに甘くないわけよ、風当たりがとぉっても強いの、だからに、君のように自称何ちゃら志望とか何ちゃらの卵とか言っちゃって自由人気取りの輩[ヤカラ]はごまんといるわけだけど、そんなんがどうにかなるのなんて才能に恵まれたほんの一握りの連中だけで宝くじに当たるようなもんだし、所詮俺らなんて淡い夢見て地方からノコノコと出て来ちゃった元々が田舎者のパンピーに過ぎないんだからさ、陸[ロク]に根づく会社[ヤシロ]も持たないでいちゃあ、何かの拍子にちょぉっと強い風が吹いただけで、ぴゅぅ〜ってなもんで吹き飛ばされて、はい! さようならぁ!ってなもんでおしまいよ。ほんとに。俺らみたいな不信心な輩には神も仏も、ましてや天国や地獄だって無いんだからさぁ。なんて意地悪も言いたくなっちゃうわけよ、おじさんは。だってさあ、考えてもみろ、もう二十八だぜ? おっさんだぜ? 勘弁してくれよ、お前なんてもうすぐ二十九だろ? 三十路だぜ? そんなおっさんがなに諸目[モロメ]を少年のようにキラキラさせながら、「僕、小説書くことにしたんだ」とかなんとか言っちゃってくれてるんだか。ほんとに。そんなの俺の知ったことじゃねえっつうの。第一お前がそう言い出してからもう何年になるよ。書きたきゃ書きゃいいだろ、さっさと。まあ、そんなことよりも今はとりあえず目の前にいる俺をせいぜい愉[タノ]しませてくんねえかな、せっかくの、久々のダチ飲みなんだし、小説書くとか言っちゃってるくらいなんだからさ、もっと面白い話をして欲しいもんだね、面白い話を。ところがどうだい、我が謎めいた親友、いとおしき彼[カ]の珍獣は、あれ以来口を噤[ツグ]んだきりで一度切り出した話を蒸し返そうともせず、先ほど一口二口つまむや否や、なんか「有り得ねえ」とかグチグチこぼしながら、それきりきっぱりと捨て置いたかのように見えた彼の不憫な枝豆の屍体盛りに再び手を伸ばそうとしている。なんか今回もダメそうだな、こいつ。にやり。
 わり、煙草くんねえ? あん?……ほれ。 おっ、センキュ。 お前もう普段吸ってねえんだろ? ああ、外で酒飲む時だけ。 はあん、なあ。 ん? あの店員、似てね? 誰に? 美里に。
 そう言って彼は、もはや原形を留めちゃいない諸々の被食者の残骸や、他でもない万物の捕食者であらうわれわれ人間の嗜好品の故に生じた灰や燃えさしの及ばぬところで両肘をついて気怠げに、彼曰[イワ]く、本日も寵辱の境で焦慮に塗れながら東奔西走、まだまだ正気は棄てられん、俺はまだ狂っちゃいない、としばしば思い出したように気炎を揚げては、仕事のついでに油も売って、それなりに息も手も抜くようにはしているものの、日々の倹[ツマ]しい暮らしぶりを繋ぐそのためだけに忙しく立ち働いていることに変わりはなく、その二心[フタゴコロ]は一時[イットキ]も安からず、結局はまた道理に昏[クラ]くなり陰気に汗ばむより他に仕様が無かったという、見た目は痩身の癖に夜毎のビールで胴回りだけが妙に脹[ハ]り出しており、まるで餓鬼のそれのようになってしまったその憐れっぽい上体をちんまりと下支えする姿勢のまま、何やら物を言はんとする炯眼で以てこちら側の視線を誘導しつつ、その一方の肘を支点にくるりと前腕[ゼンワン]を廻[メグ]らすと、それとなく右の食指でいまや彼の遥か後方に見受けられるだけになっておった先刻の女店員を指し示した。すると彼は例の如く、明け透けに嘲弄が織り成す気色[ケシキ]で艶[ツヤ]めきながら実に愉しそうに赤らんでいて、こちらと先方とを紐付ける意図でちょいちょいと流し目を繰り返しては、もはや瞑[メイ]すべき過去の痛手を前に、無二の親友とその心持ちが如何にして揺らぎかつたじろいで見せるのかを期待していやがるのか、大抵は彼が飽きるかこの表情が動くかするまでの間、それはもういやらしく喰い入るようにしてこちらの青白眼のそのまた奥を覗き込んでは探り探り、まっこと無遠慮にその色の微妙な変化をも逐一窺[ウカガ]ってみせるのだった。しかし実を言うと私は彼にそう促されるまでもなく、既に己[オノ]が追憶を投影せんがために、また初っ端に出された枝豆の不味さに遺憾の意を表したい気持ちも相俟[アイマ]って、度々彼[カ]の女店員を視界の片隅やらそのド真ん中やらでチラチラと捕捉していたのであった。あっ、また目が合っちゃった。てへっ。
 ちりちゃぁ〜ん、十七番さんお願い! はぁい!……ご注文お伺いします。 俺、生。お前は? ん〜と……じゃ、オレも。 生二つ。 はい、かしこまりました。 あっ、あと……。
 結局そのお客さんはわたしに言いかけた言葉をそれ以上口には出さずに飲み込んでしまうと、まるでそれが後で逆流してきて喉にも詰まりかねないという不安を紛らわすためであるかのように、その時にはまだ手元にあるジョッキの四分の一ぐらいの量はあった気がする残りのビールまでをも、どうしてだか明らかに焦り過ぎと思われる調子で、ぐいっ!と飲み干してみせようとして、ホント何をそんなに急いでいたんだろう、一息つくぐらいの間は十分に保てたはずなのに、それこそ慌てて流し込んだそのビールのせいで案の定喉を詰まらせちゃった上に、二度三度と激しく噎[ムセ]ぶそのうちに見る見る涙目にもなっちゃって、それでも何か物言いたげな眼つきはそのままに、一頻り咳き込んだ後の気怖じげな沈黙の中、その人は再び口を開くこともなく、その空になったばかりで水滴塗れの中ジョッキをすっとこちらへ差し出してきたのだった。何なんだろう、あの人。なんか引っかかるなぁ。さっきからジロジロ見られてる気がするしぃ……キモッ、ていうか、コワッ。何? 一体わたしの何を見ているの? イヤッ、なんかコワッ、どうしよ〜(半泣)なんて、それがどういうことなのかよくわかんないから、わたしは「コワい」って思うんだろうか、という具合に、どこか冷静に分析をはじめようとする自分もいることにはいるんだけど、中には。だけど結局、わたしはいつも、一度膨らみ出した不安にはどうにも抗し切れなくて、というか実にあっさりと、瞬く間も無いうちに、まんまと不安の泥沼に陥ってしまっている自分に後から気がついて、またそんな自身の臆病さ加減に嫌気が差しては、思わず溜息をついてしまうんだ。ホント、なんて脆いんだろう、わたしってば。はぁ……。こんなことだから大切な人に、いえ、大切にしたい、これからの大切な人になって欲しいと願っている人に、「もういいわ」なんて言われちゃうのかな。ああ、「もういい」って何なの? 一体何が「もういい」の? もうわたしなんか「いない方がいい」ってことなの? それとも、わたしのことなんか、「もういてもいなくてもいい」ってことなの? ねえ、「もういいわ」だけじゃわかんないよ、どうしてあなたがそう思ったのか、わたしはちゃんと向き合って話がしたい、未練がましいことなんてこれっぽっちも言うつもりなんてないんだから、もう恋の終わりを見誤る頃なんてとっくに過ぎてる、わたしが話したいのはそんなことじゃない、そういうことじゃないの、二人一緒にと夢見た未来が淡い恋の幻想に終わったからって、あなたとわたしの今までが「もういいわ」の一言で済まされていいわけなんてないよ、そんなの、あんまりだよ、最後くらい、いえ、最後だからこそ、ちゃんと向き合った上で、お別れしようよ、だってさ、「ありがとう」って、そう言える日が来るのは、早い方がいいじゃない、いつまでも、こんなことで気が塞いじゃって、モヤモヤして、次に進めないなんて、つまらないし、馬鹿らしいよ、ねえ、どうやら、わたしってば、本当に、馬鹿らしいよ……orz おっと、いけね、またバイト中に独白に耽ってしまっている自分がおりますよっと。(ふきふき)……はい! ここはこれでおしまい! 次はっと……まあ、平日のこの時間帯だからまだお客さんは少ないし、今日はいつもより少ないくらいだし、うるさい店長は休みだし、普段こき使われてる分こんな時ぐらいはのんびりやらないとねぇ〜。ああ、ゆっこに会いたいなぁ。また二人してお酒飲んで、わたしの甘酸っぱい、というかほろ苦い、つうかいい加減かなりイタイ、ここ最近の恋のあれこれについて語らいたいのでありますよぉ。また三茶辺りの落ち着いたお店でさ、お酒飲みながら美味しいものも食べてさ、くだらない話で盛り上がって、げらげら笑い合ってさ、そんなことで笑えるなら、それがどんなに辛い痛みでも、酒でつけた勢いと一緒に笑い飛ばしちまえ!ってさ、それでいいじゃん、ね。今までだって……。はぁ、言葉にならない。……ん? 何だ? また視線を感じるぞ? また十七番の人達? ちょっとぉ、一体何なの? ホントに、やめて欲しいんだけど、こっちはこれ以上他のことに気を回す余裕なんてないんだからさぁ〜。はぁ……。ん? 待てよ? これはひょっとして……わたしに気があるとか? まさか。でも……どっちがだろう? 二人とも? んなわけないか。あれ、どんな顔してたっけ? 一体どんな顔してる方が、さっきからわたしの方をチラチラと見てるんだっけか?……フム、念のため確認しておこっか。どれどれ? ほうほう……。はぁ。
 ちりちゃぁん! 今日通しでしょ? 今のうちに休憩入っちゃって! 賄いはオレやったげるからさ。 はぁい! 何にする? えっと……じゃあ、キムチチャーハンで♪ はいよぉ!
 ここんとこ知里ちゃん何かあったのかなぁ? いまいち本調子じゃないっつうか、折に触れカラ元気が見て取れてしまう瞬間が散見されると言いますか……。あっ、そういえば、「なんか今のカレシとうまくいってないらしいんですよぉ」ってのいちゃんとかが言ってたっけ。んで確か、「いいですか、ちりちゃんの恋のピンチはサイキさんにとってはチャンスなんですからね! 結局は『惚れた腫れただ』なんて言っても、恋とは時に非情なものなのです。もう! みんなわかってるんですからね。サイキさんがちりちゃんに気があるのなんてもうバレバレ。いいですか、どんなに泥臭くってごっつぁんでも、ゴールはゴールなんですよ! それでいいんです。事情はどうあれ、ゴール前にボールがこぼれたら、とりあえずは何も考えずに蹴り込むんです! カード(イエローカード)をもらったらもらったで、またその時に考えたらいいんですよぉ」とかなんとか……ったく、あのサッカー狂が、近代社会における成年男女間の恋の機微は近代サッカーにおけるペナルティエリア内の攻防とは似ても似つかねえっつうの。一体何の共通点があんだよ。未だに平成生まれの思考回路はようわからん。ていうか、たぶん君たちは知らないんだろうなぁ〜、って知るわきゃないか、誰にも言ってないし、きっと知里ちゃんだって言わないだろうし、言うに及ばずチャンスなんてとうに巡ってきていて、僕は君たちに急かされるまでもなく、ゴール前のこぼれ球をもうここしかないってタイミングで、それはもう無我夢中になって蹴り込んだのさ、そんで美事[ミゴト]ゴールネットを揺らしたかと思いきや、いやはや、物の見事にオフサイドでノーゴール判定……さすがにカードはもらわなかったけど、そのまま二度とゴールチャンスには恵まれずに試合終了……まっ、単純な負け試合とはちょいと違う気もするけど、せいぜい勝ち点1を分け合った、ってなところで、結局オレなんて予選リーグ突破も叶わず早々にお役御免になっちゃってるんだよねぇ〜。ああ、なんて切ない……。てか、意外とサッカーの喩えで結構いけちゃってるなぁ。うむ、やはり野井田美奈は侮れぬ。そんな君が近い将来「な○しこジャパン」に選ばれちゃう日をみんな心待ちにしているからねぃ。ほんと、大学までサッカー続けたオレなんかよりもよっぽどセンスあるんだから。まあ、オレはキーパーだったからあれだけどさ。ああ、またみんなでフットサルもどき(笑)やりてえなぁ〜。のいちゃんがいるうちにさ、みんな散り散りになっちゃう、その前にさ、もう一回ぐらいは、さ。まことに輝かしい未来、か……。ほんと図体ばっかデカくって(190cm弱)いつまで経ってもうだつの上がらない、もはや二十代も後半に差し掛かったというのに、この先一向に上がる見込みもなさそうな、そんな取るに足らない一フリーターに過ぎぬオレ如きに今できることといったら、都心外れにある繁華街(?)の尽きる一歩手前、それはもう場末と呼んでしまってもよさそうな立地条件下に置かれて時の経過とともに車の排ガスやら粉塵やらでか黒く煤けていったに違いないこの鉄コン筋クリート仕建て(全五階)の陳腐な雑居ビル(名前は知らない)の一フロア(4F)に間借りして年中無休で商っている大手居酒屋チェーンの一店舗内に備え付けられたこんなにも小汚くて狭苦しく何処か仄暗い感じさえして時にそれは郷愁を誘わずにはおかないといった風情のこれはもはや乃至いずれは心情的にもあのステンレスのよに草臥[クタビ]れた鈍色[ニビイロ]が基調とならざるを得なくなりそうで正直それが至極残念にも思われるのだがどの道皆が皆遅かれ早かれ先行きをぱったりと閉ざされてしまう定めなのだから何かと渋いことばっかりなのも止むを得ない、そんなお気楽ではあるけれど深入りをしたらしたでその分報いへの期待は薄くなっていく一方という結構因果な厨房内に独り立って、フラれてもまだ好きな女の子のためにせめてもとその子の賄いであるキムチチャーハンを心を込めて拵[コシラ]えてあげるっつうこの何とも健気な役どころをせいぜいそつなく無難にこなしてみせることぐらいだからなぁ……なんか、いろいろと切ない境遇ではあるまいか。ふぅ……、なんだかえらく独り語っちゃってるよなぁ、柄にもなく、でも本当はわかってる、心が波立っているから、そりゃいつもがいつも同じ様にはいかないさ、銅像じゃあるまいし、大凪[オオナギ]もあれば時化[シケ]だってあらあな、これは通り雨みたいなもんか、どうしたって、まだ気になるから、まだ、彼女のことが、す、好きだから……。くっ、なんて切ない。さて、気を取り直してっと、今日はあのいやらしい店長がいないからな、知里ちゃんの好きなチャーシューもたっぷり入れてあげよう、それからっと……おっと、そうだ、しらがねぎもっと……よし! でけた!
「ちりちゃぁん! チャーハン上がったよぉ!」、「はぁい!」――うん、好い返事だ。
佐伯[サエキ]さんはきっと、わたしのことをまだ、好いてくれている……それはわかってる。自惚れなんかじゃなくて、そういうのってやっぱり、伝わってくるもんなんだ。それが思いを寄せている当の相手に、他でもないその思いが及んでしまうことをも憚[ハバカ]らないような人であれば、尚更、それは伝わってきやすいし、わかりやすい。わたしのような人間の場合、その方が、ちょっと助かる。そう、佐伯さんは、わたしのことを、助けてくれようとしている、そんな品心[シナゴコロ]の優しくて温かい、いつも一緒にいるみんなをほっこりさせてくれる彼だから、わたしのことも、いいえ、きっといまは、わたしのことだけを、特別に気にかけてくれている、あの日あの時に彼は、わたしのことを、好きなのだと言ってくれた、それはきっと、確かなことだろう、そして彼は、わたしに、あなたのことだけが好きなのだと、切なさが募ることも辞さずに、念を押してまで……、普段は何気に構えるでもなく鷹揚としている彼が、ことわたしのこととなると、途端に周囲の目も憚らずにナイーブな一面を覗かせて、自らの求めに臆するような素振りを見せはじめる、のいちゃんを筆頭に、彼ら気の置けない仲間達なら、もうみんな、気づいてるんじゃないかな、ゆめちゃんもコウちゃんもジョリさんもケイちゃんもまこくんも……みんな、そういう話嫌いじゃないし、特にのいちゃんはきっと、佐伯さんのことが、好きだから……。ああやだ、わたしやっぱちょっと、自惚れてる……、だから何なのよ、いいじゃない別に、なのにわたしは……どうして……、わかっているの、本当は、佐伯さんが好きなのは、「わたし」じゃないから……。
 おっ、またちょっと揺れたか? ああ……。 そういやさっきお前動揺してたろ? あん? 別に。たまたまだろ。 いやいや、間違い無くしてたろ。ふひひひ。――ったくもう。
 実[マコト]に遺憾ながら我と我身[ワガミ]の親しき友でも有り得るという彼[カ]の低俗な悪餓鬼は、単に己[オノ]が眼前に坐[マシマ]す御高節純粋[ピュア]な人心[ジンシン]の折に触れ機に臨んで変に応じながらも幼気[イタイケ]に揺らめいて見せるその様をあざとく目端で捉えては得たり格別とほくそ笑んでいるわけではないのだろう。そうではなくて、かつては人心の人心らしく他人[ヒト]に働きかけんとするその情理までをも、一体何の故かは知れぬとて、頑なに拒んでいるかのように見えた彼の防衛過剰な人の子が、歳月を慈しみとし、内外に至る感傷や抵抗、万物にも及ぶ恩恵や人間存在の不条理など、引く手払う手ともに数多[アマタ]な種々諸々[シュジュモロモロ]の悲喜劇的要素の混在する中で、それもオレとアイツは最も多感な時期を共に過ごしてきた仲で、みたいな感じで、時には己が生誕をすら災厄としながらも、ほんの微々たるものに過ぎない一握の砂の如き不幸中の幸いを由[ヨシ]として、独り儚き意を紡ぎ、恐らくは束の間を、まずは一世[ヒトヨ]限りの己[ウヌ]が一身の生として繋いで、ある時ふと話を聞いた頃には、いつの間にやらデキていた彼女とは人知れず手を繋ぐ仲なんて疾[ト]うに通り越しており、お二人の馴れ初めもそこそこに、今や昼夜を分かたずに人目を忍んでは仲睦まじく契りをも交[カワ]しているといった惚気[ノロケ]っぷりで、なんだお前、ついこの間までは女には興味無え、みたいなことを平気で言ってやがった癖に、今まで散々硬派に見せかけておきながら、実のところ単なるむっつりだったんじゃねえか、ええい、水臭いにも程があるぞ、ていてい、なぞといった具合に仲間内で一頻り槍玉に挙げられたその後には、何とはなしにまた一つ通過儀礼を終えたのだといったような歓迎ムードの中で、自身のあどけない恋の所業について根掘り葉掘り訊ねられては、こちらもこちらで恋に恋する悦[ヨロコ]びを一身に享受しながらそれなりに愉しんで受け答えをしていくうちに次第に妙なテンションにもなっていき、聞かれてもいないことまで嬉々としてしゃべり出してはこれまでにない饒舌[ジョウゼツ]っぷりを披露するといった始末で、まあ、聞く者も話す者もとりあえずは色恋沙汰というだけで色めき立って燥[ハシャ]ぎ合えた頃の話であるから、現代[イマ]や「恥は掻き捨て世は情け」ってなもんで、たといその忘却の彼方には、もはや若気の至りでしたとしか弁明の仕様がなく小っ恥ずかしいことこの上無いだけの甘酸っぱい数知れぬ思いや不用意な発言の数々が、いつかまた語られる日がやって来ることを待ち侘[ワ]びているかのように、未だ言の葉を仮[カ]りて無常の風に煽られながらも、決して消え果ててはしまわずに、ひらひらと、際限も無さそうに、この己が身内に潜む虚空の闇の中を延々と、それは悠久の春風に舞うように、当て所[ド]もなく漂い続けているのだとしてもだよ、そういった諸々の根底に在る本来であればただ言外の事どもとして片付けられてしまいがちの種々雑多な諸事情をも踏まえた上でそれらを総括し吟味検討したのであれば、今まさに私がそうしようとしていたように、それらを単に「嬉し恥ずかしながら、今となっては好[ヨ]き想ひ出です」とか何とかだけ言って済まされるような問題ではなくなってくるのではないか、いや、別にそんなことは言わずにそれはそれで済ませておいちゃった方が身のためなのかもしんないけどさ、本当に、どうしてなんだか、私の場合はどうにも放っては置けないと言いますか、いつからか己が根底を省みずには已[ヤ]まぬ業[ゴウ]みたいなものまで抱え込んでしまっておった、というような節があります故、ま、ここは一つ道草気分で、恐らくそこには妬み嫉[ソネ]みに代表されるような醜くおどろおどろしい感情の数々や、無思慮かつひたすらに自己保身的で姑息なだけの虚栄心であるとか、さらには、かつて自己の存在の根本をも揺るがしかつ脅かすような精神的危機に見舞われた際の痕跡[キズ]であり、未だ根底から表出に至るまでにも差し障りを見せる気配のトラウマであるとか、正直目も当てられない、というか、できることなら一生涯伏せたままにしておきたい、というような裏事情ばっかりである故、何人[ナンピト]も余程のことがない限りはよくよく自ら省みることもままならない、そんな私をも含めた有象無象が容易[タヤス]く陥りがちなのになかなか気がつけない意識下における彼の無知蒙昧たる感情の渦の如き混沌とした無意識とも呼ばうる濁流の中に自ら進んで身も心も投じてみようなどと試みる者というのは、何というか、何かしら不幸な者ではあるまいか、別段誰に頼まれたわけでもなかろうに、何をわざわざ好き好んで、知らぬが仏、とも言うではないか、って馬鹿にすんなよ、確かにおフランスには行ってみたいけど、少なくとも私はこの時点においてもはや仏として在りたいなどとは露[ツユ]ほどにも思っていないのであるから、そんな私とは断じて仏ではなかろう、私とは人の子である、たとい父や母は持たずとも、この私とは誰かの子であり、誰かの子でしか在り得ない、それは単なる事実であり〈現前〉として在る――と言うのも、そもそも人の子とは男女による目合ひ[マグワイ]に端を発するのであり、事の初めにおいては決して父母により生ずるのではないから、不意に故意に子を生ぜしめた幼気な男女が公[オオヤケ]により父母という大人の男女として仕立て上げられるに過ぎないのであり、またそうであるからこそ、父たり得ない男親や母たり得ない女親も生じてくるに相違ない、もっとも実際に胎[ハラ]を痛め産みの苦しみというものを身を以て知ることになる女親ならともかく、男の場合は自らが子を生ぜしめる契機となった男親であるという事実を事実として自覚することが必ずしも容易ではないため、そこには常に「男親は他の男でも有り得る」という懐疑が付き纏う、女の交遊関係によっては、或いは……と、DNA判定などと言ってもそこに万が一が無いわけではないし、それに極々一部の例外を除いては、男親かもしれぬその男が、何か自身の手によって客観的に事の真偽を確かめ得るような術[スベ]を持っているとは考えにくい、言ってしまえば男の側は、窮極的には自身がその子の男親であるとそう《信じる》より他にないというのが実状ではなかろうか、「たぶん酩酊して意識を失っていた隙に……」とか、「もうわたしってばとにかく忘れっぽくて……」だとか、「いつ誰と性交〔SEX〕したかなんていちいち覚えてない……けど、まあ、同時期に複数の男と頻繁にヤッてはいました」などなど、余程のことが無い限りは、誰がその子の男親で有り得るのか身に覚えまであるのは、他でもない人の子を孕[ハラ]んだその当の女だけではあるまいか、しかし男女の別なく時に人の子というのは、実に巧みな嘘をもしれっと吐[ツ]いてみせるものでもある故、或いは……、と斯様にして一見われら人の子の己が〈認識〉の不完全さに基づくこの懐疑というものは(それが男女間における人の子ができちゃった話に限らないことは言うまでもないが)決して尽きることがないようにも思われる、が、これまでのいつの世においてもわれわれは、たといそこに未だ疑わしきはあっても、今の段階ではこれ以上疑ってみたところで仕方が無いと、そう限定することよって、或いはそれも束の間に過ぎぬやもしれぬ、と内心訝[イブカ]しみながらも、飽くまで後[ノチ]に来る人の子に繋ぎ得るための、この他でもない秩序を保つ道の方をこそ選び取ってきたのではなかったか、無論多大なる過ちは跡を絶たない、しかしそれでも、現にわれわれはこうして続いているではないか、続けているのではないのか? そしてこれからもこの先も何処までも、われわれは人の子として、これを続けていこうとしているのではないのか? ただしここで一つ肝に銘じておきたいのは、そのわれら人の子の疑い得る範囲というのも、決して不変では有り得ないということだ、それもまた、そしてわれわれもまた、時とともに変遷を繰り返しては、その度に過ちを改めもしてきた、たといそれがほんの微々たる変化に過ぎないのだとしても、たといそれが人の子のほんの束の間の生を繋ぐ往生際の悪足掻きに過ぎないのだとしても、それでも、未だ嘗て後の子に続き得る変化への兆しもまた、一度たりとて跡を絶ったことはないのであるから、それはまだだ、まだまだ何もかもが終わったわけではないというのに、一体全体続けるより他に何ができよう――とは言え、ひょっとすると私は時に仏でも在り得るのかもしれないが、それは決してわれら人の子の常態とは為り得ないのではないかしら、誤解を恐れずに言ってしまえば、そもそも〈仏〉とは常態ではなく〈状態〉であろう、〈仏〉とは悟りを開[ア]いた者であり涅槃[ネハン]の境地にひとり坐[ザ]する者であり〈沈黙〉である、そして無論人の子、現にわれわれは死者たちのことを〈仏〉とも言うではないか、時には「死人に口無し」とも、そしてさらに言えば人の子の人の子たる由縁とはそもそもはじまりの人々が〈沈黙〉を失ったことに起因するのであるから、斯様に長々と己が思弁をのたまって止まない私なんぞが〈仏〉であろうはずがない、われわれはまず〈沈黙〉を失った、もはや〈沈黙〉は無い、われわれがこのようなわれわれであるのは、そもそも〈沈黙〉を失ったためであるから、たとい己が声を絶ち黙りこくっていたのだとしても、それがここで言うところの〈沈黙〉であるとは限らない、そのような人の子であっても、彼[カ]の身の内には引きも切らぬ喧噪があるやもしれぬから、「……〈沈黙〉……」という言明自体が「〈沈黙〉の崩壊」となる、故にそれは語り得ない、われわれによって語り得ないものというのは、われわれにとって《示される》より他にないのではなかろうか、ただしその《示され方》となると、いろいろとありそうなものだが、菩提樹の下[モト]にひとり坐し、唯一語り得ない境地にまで達した仏陀[ブッダ]は、何処までも天上天下唯我独尊として、自らの身を以て彼[カ]の〈沈黙〉を示され、今生[コンジョウ]より去って逝ったのではなかったか、万物の一切とは生滅流転[ショウメツルテン]して已まぬ、即ち〈無常〉であると、かつては人の子に、そう説いてもみせながら……、その言[ゲン]はまさに諸行無常の響きとなりて、娑羅双樹[サラソウジュ]の花色[ハナイロ]の如き盛者必衰[ジョウシャヒッスイ]の理[コトワリ]をも、われら人の子に知らしめんとす、おごれる人も久しからず、と、確かにそう嘯[ウソブ]いてもみせるのだ、他でもない人の子の、彼[カ]の声に、数限り存[ア]る言の葉が、このように、振れ舞うようにして……そう、仏陀亡き現在[イマ]、それは果たして幸か不幸か――って、あいつ遅えな、クソか? んあ。……とまあ、とにもかくにも、何かと頑なで気難しいだけが取柄だったような人の子が、こうしてどうにかこうにかとりあえずは三十路一歩手前にまで差しかかり、平日の、それもまだ日も暮れきらぬうちから――ぱっと見ほかに客は二三人(そのうちカップルらしき男女が一組)しか見当たらない、駅近にある居酒屋兼お食事処のたぶん駅とは反対方向の突き当たりにある入り口からも便所からも大分遠い奥まった喫煙席側の一角、流石にやや手狭ではあるものの、気心の知れた旧友と相対座して酒を嘗[ナ]め合いながらふと一瞥する分には未だ経年の翳[カゲ]りが見えない程度には新しく、これぞまさに「わたくしどもは薄利多売で以て商売繁盛を可能にすべく、お客様一人びとりの身になって考え、当社の経営理念をこのように快適な商空間として実現いたしました!」とか何とか言はんばかりの、そんな地に満ちる現代っ子の廉価大量消費を促すべくよく設[シツラ]えられた通常時は二人掛けの実にこぢんまりと壁際に収まったテーブル席のうちの一つに陣取って、旧友とは言え余所様[ヨソサマ]の、それも往時の蜜月、その俤[オモカゲ]をだよ、あろうことか安酒の肴[サカナ]にまでしよってからに、その上ほろ酔い気分の小憎らしい笑みをすら満面に浮かべても見せながら、仕舞いには去り際のよろめいた拍子に屁まで放[ヒ]りつつ便所に立って行ったという、少なくとも私の前での振る舞いは実に奔放そのもののようでもある彼の旧来の友との来歴を、非常にざっくりとではあるがそれでもそれなりに振り返り甦らせ語り出してもみせそうな気配、流れであったのに、それがいつの間にやら我と我身にとってはどこをどう多く見積もっても分不相応でしかなさそうな〈仏〉がどうしたとかいう誇大的な妄想のひとりでに涌き返るに委[マカ]せるまま云々[ウンヌン]と、これまたひとりでうんうんと、蜿蜒[エンエン]と、飽きが来るまで呻吟[シンギン]しておりましたとさ、どうしてまた、なんてことを中生[チュウナマ]二杯半分のアルコールを注入した地頭[ジアタマ]でぼんやりと目の前にくゆらした紫煙を矯[タ]めつ眇[スガ]めつ眺めつつゆるゆると思い返したり何だりしながら、今生にて便所還りの友をこうしてひとり黙坐[モクザ]して待っていられるというのも、私があのような時期にあのような奴らと関わり合いながらあのような経験をしてきたからで、今現在の私というものがいま此処にこうして在ると言うのも、これまでにそうしてきたことがその一因ともなっているからなのであろうし、また現在に至るまでにも水面下において数え切れぬほどの往来反復に堪[タ]えてきたに相違ないそうしたことどもの積み重ねの数多こそが、他でもなく私をいままさにこうしてこのようにさせており、また現に私をこうしてこのようにさせずにはおかない由縁なのではなかろうか。たとい当人がそれを〈意識〉しているにせよ、していないにセヨ。ソウ、反繰[グ]ル。繰リ返シノ積ミ重ネハ積ミ重ネノ繰リ返シ……みたいな――って、なんのこっちゃ。おっ、我らが友のご帰還である。さあ皆の衆、麗[ウルハ]しき金色[コンジキ]の麦酒〔bier〕を持て、祝杯をあげよう!
 おかえり。クソか? 違えよ。嫁と電話。あとコンビニで煙草買ってきた。 あっ、わり、もう一本もらってたわ。 ああ。――こいつはその時々の彼女のことを「嫁」と呼ぶ。
「ちりちゃん、大丈夫?」だってさ、わたし思わず「え?」って言っちゃった。揺れが収まった後に駆けつけて「大丈夫?」はないでしょ。それもあんな蚊の鳴くような声で。なんか飼主に向かって鼻を鳴らしてみせる大型犬みたいだったな。ふっ。どうしたの? 何をそんなに心配しているの? 怖かったの? それとも、わたしの身を案じてくれているのかしら? あの程度の揺れで? ありがとう、優しいのね。でも、あなたはわたしにこう言ったのよ。「僕は君のことをこんなに気にかけているよ、怖かったよね、君は地震であんなひどい目に遭ったんだもの、仕方ないよ、だからどうか、独りで抱え込んだりしないで、僕に、僕に、どうか僕に……やっぱり僕じゃダメなのか? ねえ君、そんなこと言わずに……こんな、こんな可哀想な僕のことも気にかけておくれよ」って。わたしはどうすればいい? あなたがわたしにそうするように、わたしもあなたに同情してみせればいいわけ? 冗談じゃないわ。自分がされたくもないことを他人にしてみせろっていうの? ふざけないでよ。ねえ、何なの? いったい何だっていうの? ねえ、答えてよ。それで? そうすれば? どうなるの? ねえ、誰か答えてよ。それで、そんなことして……、いったい何がどうなるっていうのよ! どうにもならなかったじゃない! 何ひとつ、どうにもならなくて……何にもできなくて……それなのに、どうにかなるって……ああ、ああ、ああ!……もう、もういや……それなのに……何で? ねえ、何で? 何でなの? ねえ、誰か答えてよ! これっていったい何なの? ねえ、わたしにどうしろっていうの? ねえ、いったい何だっていうのよ! ああもう! やだ! やだ! やダ、やだヤだ、ヤダ、やダヤだやダヤだヤダやダヤだヤダやだ……も、いや……だ……いや! もういや! いやなのよ! なのにどうして? どうしてこんなこと……ねえ、どうして? どうしてなの? わたし、一体どうして……どうしてこんなことに……。
 ――ねえ、かいる、あなたならなんて答える?……ねえ、知ってた? わたしもう一生、死ぬまで……いえ、たとえ死んでも、あなたのその答えを聴くことは決して叶わないの。人が「死ぬ」って、そういうことなんだよ。でもあんたならきっと……わかってた? わたしはね、あなたを失って……初めて知ったの。もう、どうしようもないのにね……。
「海の見える街」に住んでいる、というのが、あの頃のわたしの、一つの誇りでもあった。でもはじめからそうだったわけじゃなくて――自分や地元の人達だけじゃ、それが余りにも当たり前過ぎて、気がつけなかったと思うから……、毎年夏休みになると埼玉から遊びに来ていた従姉の琉衣[リュイ]ちゃんが、実家[ウチ]に来るたんびに飽きもせず、「いいね、いいところだね、素敵。ああ、あたしもここに住めたらなぁ〜。そしたらちりちゃんと同じ学校にも通えるしぃ……って、あっ、でもあたし一コ上だから中学校に上がったら分かれちゃうね、でもまたすぐ一緒になって……と、そしたら次は高校かぁ……、ああでも、ダメ! ダメダメ! あたしちりちゃんみたく頭良くないからきっと同じ学校には行けないにょぉ〜(半泣) 悲しい。でもそうなったらきっと楽しいね♪ そう思わない?」なんてことを言うもんだから、こっちもだんだんそんな気にもなってきて、それでたぶんそんなことがきっかけとなって、幼児期からちょっとおマセさんだったらしい当時のわたしには、いつとなく我と我が街を見つめ直すような心境で日々を過ごすことが常となっていた時期があって、そしてそれはやがて琉衣ちゃんが遊びに来ることもなくなっていた頃には、「わたし、この街が好き」というところに落ち着いていたのだった。そしてその後お勉強が苦手だった琉衣ちゃんはというと、結局は入試で九九が出題されるような郊外にある私立にしか受からなかったけど、その後は順調にお金さえ払えば入れる(たぶん卒業もできる)短大に進んですぐに、新歓コンパで知り合ったとかいうそんなに好きじゃなかったらしいカレシとの間に子供ができちゃって、それでやむなく短大の方は諦めて、そのまま入籍して、半年後には式も挙げて、その時はわたしも出席して、でもやっぱり上手くいかなくて、確か一年半ぐらいで離婚して、シングルマザーになって、「わたし一人じゃ無理だから」って埼玉の実家に戻って、その頃のパート先で同じくバツイチのいまの旦那さんと知り合って、それから数ヶ月後には再婚して、今度は二人と家族だけのささやかな式を挙げて、わたしの元にはその時の写真をあしらったポストカードが送られてきて、そしてその後すぐに、二人の間には、それぞれにとっては二人目の、家族にとっては三人目となる子供ができて、それから……それから……。
 時計に目を遣る。食べ終わってから五分程が経過……。大丈夫、まだそんなに「ズレ」てない……はず。食器、は……佐伯さんが持ってってくれたんだっけ。ああ、心配されたことに一杯一杯になっちゃって、わたし、ちゃんとお礼も言えてなかったみたい……その上……、ごめんね、佐伯さん……わたし……。はぁ、っとにもう……。いやんなるわ。
佐伯さんは食が細いわたしのことを気遣って、いつからかわたしにとってちょうど好いご飯の量をちゃんとわかってくれていて、それから、本当はダメなんだけど、店長の目を盗んでは「ご飯を少なくした分だから」って、わたしの好きな具をトッピングまでしてくれて、それになんだか見た目にまで気を使ってるみたいで、ある時わたしの賄いを見た店長に「おい、提供品よりも出来が良いんじゃないか?」なんて嫌味を言われちゃったこともあったっけ。佐伯さん、優しくしてくれるよなぁ……ホント、みんなにも優しいけど、わたしに対しては明らかに+α[プラスアルファ]が認められるし。ああいう人柄っていうのはやっぱ、育ちの良さからくるものなのかな。人の良さが顔にまで滲み出ちゃってるといいますか。そこを店長に付け込まれちゃうことも少なくないし……。でも今日のはちょっとやり過ぎかな。なんかだいぶ具が増量されてたよね、のるはずのないネギまでのっかっちゃってたりとか。別にそこまではしなくても……。こっちがそうしてって頼んでるのならまだしも。はぁ、ホント、ありがたいことだとは思うんだけどね……そんな風に、わたしのことを「想って」くれている人がいるんだってことは、きっと。だけど「わたし」にとっては……そういうことが……う、うが、ダメだこんなことじゃ……ていうか、わたし、こんなのってイヤだ! よし、休憩明けは普段よりも三割増しの「ちりちゃん」スマイルで元気よく立ち働いてみせることにしよう! いつも以上に明るい声で、オーダーミスにも気をつけて、ホールにもキッチンにも迷惑かけないようにして、それから……それから……。はぁ、こんなことなら一時間休憩無しで働いてた方がいっそ気は楽なんだよね。さすがにお腹は空くから、ご飯だけ食べてすぐ、とか。でもそういうわけにもいかないしなぁ……、みんなボランティアじゃないんだからさ。働いた分はしっかりともらわないとね。もらえない分は働きませんよっと。ったく、「わたしたち」に限って言えば、だけど、みんな時給分の働きは十分にこなしてるんだから、細かいことでいちいち文句言うなっての。店長の杜撰[ズサン]な食材管理の方がよっぽどお店にとってはマイナスだと思うんですけど。ってまあ、わたしは直接何か店長に言われたことはないんだけど……。例外的に。何でだろ? ちゃんとできてるってことなのかな? でもあの店長の小言はそういうことあんま関係無い気もするし……。ちゃんとやってる人にもやってる人なりに、よくもまあチクチクとなんか言ってるよね、いつも。だからなかなか新人君が居つけないんだよ。ああいう人の扱い方ってやっぱ問題あると思うんだよなぁ。まあ、その分割と根性のある人達が残って、「横の繋がり」が強化されるっていう一面もあることにはあるんだけどさ。それにしても、ねぇ……。ま、そりゃさ、わたしたちなんて所詮は仮り雇いのアルバイトに過ぎませんからね、店長にしてみれば、やめたらやめたで結構、こちらとしてはまた同じ条件で、文句一つ言わずに働く人材を新たに雇うまでなんで、ってことなんでしょうけど。きっと会社としてもそういうやり方、してるんだろうし。――たとえそれがどんなに細く頼りない「繋がり」であっても、わたしたちにとっては「繋がっている」というそのこと自体が重要なのさ。たとえそれがどんなに儚くて、束の間に過ぎないのだとしても、ね……。今までだって……ずっと、そうだったんじゃないの? そうかな……そうだったのかな……。正社員っていってもねぇ。なんだかんだで店長とか社員の人達も大変みたいだし。働けど働けど誰の暮らしも……か。そういえば時給に換算するとわたしたちよりも賃金が安いって嘆いてた社員の人もいたっけ。あの人(♂)は結局すぐにやめちゃったんだよね。ま、あれはあれでかなり問題もあったから、何とも言えないところではありますけれど。あの人の名前、は……うん、忘れたな。(チラッ)はぁ。時間が過ぎない……。――全く、イヤな流れだ。
過ぎ去らない時間は骨身にこたえる。そこに是非は無い。外界の惨状に通じて無残な有様を呈した人心にも、絶え難く時間の腐蝕作用は忍び寄る。時々刻々と後人の嘆きは持ち重り、当て所を失くされた忘却の楔は空を切る。もはや錆びついた庇い手に、なけなしの欣求――わたしは独り払底に蹲っている……。
 こんな時にケータイを眺めるのは好かん。あの時の事を思い出すから……。かいるのブログやSNSのページは相変わらず更新されずに凍りついたままだ。当たり前だけど。頭ではわかっている、つもり……なんだけど、未だ実感に乏しいというのが実情だ。だってあいつ、本当に戻って来なかったから……。いつかまた、忘れた頃にひょっこり現れるんじゃないかって、もうそれはないよって自分で自分を打ち消しながらも、神出鬼没だったあいつのことを思い浮かべては、少しでも気を楽に保とうと努めている自分がいる。でも最近は、そういうことも全部、忘れてる時がある……。こんな事でも無いと、何一つ思い出せなくなってきている? それは恢復[カイフク]の兆し? だけど未だその周辺には、思い出したいのに思い出せない、忘れたくても忘れ去れない、そんな記憶の記憶らしくなれないでいるような事実無残な後始末、再視[サイシ]に悲惨と取り残された断片の数々が、累々と横たわっているような気がして……。特にあの前後のことは。わたしはそれに触れた時、もう一度「繰り返して」しまう、「思い出す」んじゃなくて「繰り返す」……あの時を、もう一度。そしてそうしている限りは、その「事の終わり」も見えないようなもので……。というのも、それが一度[ヒトタビ]当人にとって「過ぎ去りし事」とされ、人の手に成ってしまえば、それはもはや野辺[ノベ]に打ち棄てられた残骸としてあろうはずもなく、時に忘られ時に思い出されて、後[ノチ]の子に「語り」継がれもし得る汝[ナンヂ]自身の「こと」として「もの」として、他でもなく汝とともにあるようになるはずであろうから……。
 ――かいる、あんたが言ってた「声」ってこういうことなのかな。最近はわたしにも時折、聞こえるようになったんだよ。あんなことになって、どうしようもなくて、辛いことが多過ぎて、身動きも取れなくなった時には、わたし、いつも、あなたならどうするかって、あなたなら何を見て、どう考え、何て言ったかって、ずっと、そんなことを想像してたの。この先どうなるのか、なんて何も思い浮かべられなくても、それでもあなたなら、そんな事態の最中[サナカ]にあってもひとり飄々として、一人じゃ無理なわたしでも、あなたと一緒なら、きっと、乗り越えられるような気がして……。静寂が切々と身に堅固[カタ]く、沈黙に圧[オ]し潰されそうになった時、わたし、あなたの声に耳を澄ましていたの、わたし、あなたの遺[ノコ]して逝った言葉に耳を傾けていたの……。